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 見るからに重そうな厚い雲の隙間から粉雪が舞っていた。風はそれほど強くなかったが、雪の粒は小さく硬く締まっていて、落ちた土の上を風に乗ってコロコロと転がっている。歩くと霜柱とまではいかないが、冷えた土がサクサクと音を立てるのが草鞋の底を伝って感じられた。その自分の歩く音と、枯れ枝の間を通り抜ける時に風が立てる小さな音しか聞こえない。足を止め、目を閉じる。ゆっくり息を吐く。見なくても自分の息が白く湯気になるのがわかる。  息を吐き切ってほんの束の間、息を止める。そして目を開くと同時に刀を抜く。風が一筋の力になって前から襲ってくる。  瑞輝は前を睨み、思わず喉の奥を震わせる。  おい、三方から来るとは聞いてない。  たった数分の奉納演武だったが、瑞輝は今日こそは死ぬと思った。実際、カマイタチにやられたみたいに、体のあちこちが切り傷だらけだ。風に切られるというのは、普通一般の人にはなかなか経験がないようで、理解してもらえない。一番近いのは薄い紙で手を切る感覚、あれをもっと薄くして深くした感じと言えば、多少わかってもらえる。ただ、傷口が薄すぎて血はほとんど流れない。見た目にはほとんど怪我なんてしてないようなのに、本人は切り刻まれたみたいに辛いということになる。  こういう危ない神事を請け負うのが瑞輝の仕事というか義務のようだった。もうその流れに異議を唱える気力もないぐらい、しっかりレールに乗せられている。生後すぐに田舎の山の上にある神社に引き取られて十八年。物心ついた頃から、何が何だかわからないままに神事に関わって来た。今ではそこから逃れるという選択肢さえ、思いついた途端に自分で否定して笑ってしまう。まるで脱獄不可能な刑務所にいるみたいだ。選ぶとか選ばないじゃなく、それしかないのだ。瑞輝はその生活を心から楽しいとも思っていないが、拒否するつもりもない。瑞輝にとってそれは息をする事と同じく自然な事だからだ。心臓が勝手に動いているのと同じく、自分の意志とは関係なく神事が瑞輝を呼ぶ。別に怪我なんて大したことではない。どうせ傷はすぐに治る。気味が悪いほどに治癒力が高い。一部の人はそれを『黄龍の力』だと言う。そんな名前はどうでもいい。問題は、今日は八時までに地元に帰れるのかどうかということだ。  瑞輝は神事の後、控え室になっている社務所の奥の部屋に通されていた。温かいお茶も出ているが、壁にもたれてじっとしているのがせいぜいで、湯飲みの前に置かれている茶菓子にも手がつけられない。うまそうな大福だっていうのに。 「入間君、またしくじっただろう」  目の前のスーツ姿の偉そうな男が言う。瑞輝のお目付役でもある伊藤光星だ。「また」って何だ。だいたい神事に「しくじった」も「成功した」もない。そりゃ神さんが決めることだ。俺はその仲介役を頼まれてやってるだけで、氏子が期待した占いの結果を出すために呼ばれたわけじゃない。とは思うが、瑞輝はぐっと黙っている。そんなことを口にしたら最後、伊藤にボッコボコにされるのがわかっているからだ。伊藤は『龍清会』という黄龍信仰を母体とした胡散臭い宗教法人の幹部らしい。瑞輝はその龍清会に『黄龍』だと迷惑にも認定されて、こんな人生を歩んでいるわけだが、伊藤はその黄龍をまったく大事にしない。ほとんど敵同士に近い。瑞輝はいつか伊藤を見返してやりたいと思っている。 「黙ってるってことは認めちゃうんだね」  四十過ぎという年齢の割にくだけた口調で伊藤が言う。瑞輝はため息をついた。まぁ正直言って、奉納演武の途中で動けなくなったのは確かだし、今もこうして動けずに痛みに耐えるしかないってのは、端から見れば失敗だろう。伊藤の小言ぐらい聞いてやってもいい。 「まったくいつになったら黄龍君はしっかりしてくれるんだろうねぇ。教育係も大変なんだよ。もうすぐ高校も卒業するんだから、もうちょっとしっかりしてもらわないと。卒業したら龍清会でみっちり鍛えてもらわないとね。君は気持ちがあやふやすぎるんだよ。黄龍としてしっかり芯を持ってもらわないと。精神が揺れてるから、こうやってしくじるわけ」  はいはい。  瑞輝は受け流す。この小言にも慣れた。もっと酷い罵倒にも慣れた。この人は褒めることがない。けなして踏みにじるだけだ。最初に会った十四歳の時は心から傷ついたものだが、今では瑞輝の方も鈍感になってきている。おかげで強くなった。瑞輝はまだ続く小言を聞きながら、壁の時計をチラリと見る。六時過ぎだ。家からここまで片道二時間の道のり、病院の面会時間の八時までに戻るのはかなり厳しいだろうと落胆のため息をつく。
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