茜色の空に再会の約束を

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茜色の空に再会の約束を

 僕はある日、ベランダに立って、柵に寄りかかりながら、煙草を吸っていた。その煙が漂って、すぐに薄く掻き消えていき、夕暮れの水平線へと溶け込んでいった。それは心に染み付く哀愁と同じだった。僕にはこの景色を見ることも、もう今日限りなのだ。  明日の夕陽を見ることも、明日の哀愁を感じることも、叶わないだろう。それはきっと、波にさらわれた足跡と一緒でたちまちに消えてしまう、刹那の出来事なのだ。僕はこの街を離れ、遠く彼方にある都会で生活することになるのだ。きっとそこには、この場所のように静かな夕暮れを感じることはできないかもしれなかった。  僕はもう一本の煙草に火を点けた。春の暖かな西日が、どこまでも僕の目に眩しく映った。そこでふと、真下の歩道を、栗色の影が過った気がした。視線を落とした頃にはその影は僕の直線下に立っており、こちらを見上げていた。 「また煙草を吸ってるの?」  彼女は眉を少し吊り上げて怒ったような顔をしながら、すぐに唇の端を持ち上げて笑ってみせた。僕はしばらく山間の景色を見つめながら煙草を吸っていたけれど、そこで背後の方から、玄関のドアが開く音がした。 「あんたね……こんな若いうちから吸ったらまずいよ、本当に」  彼女はベランダには降りずに、窓枠へと手を付いたまま、呆れたような顔をしていた。僕はすぐに視線を前方に戻し、柵にもたれながら、ぽつりとつぶやいた。 「そんなの、僕の勝手だろ。咲にどう思われようが、僕が何をやろうが、それは別のレールの上の出来事に過ぎないんだ」 「そんな下らないこと言ってるの? レールだって、いつかは交わるわよ?」 「僕と咲のレールは、交わってるのか?」 「変な言い方しないでよ、もう」  彼女は少し唇を尖らせて言ったけれど、ようやくベランダへと降りてきて、僕の隣に立った。彼女の栗色のショートヘアーが音もなく、僕の頬の先で舞った。わずかな汗の香りが、どこか苦い果実のように漂った。 「この街をもう出発するの?」  彼女が風に掻き消されてしまいそうな声でつぶやくと、僕にはそれが本当に耳に届いたものだと、最初気付かなかった。 「この街にも、愛着はあるんだけど」 「他に何か、愛着のあるものはないのかな?」 「特にないかな」  僕がそう言うと咲は容赦なく、僕の脛をスリッパで蹴り飛ばした。僕のジーンズに、薄っすらと煤の跡が付いた。 「咲は最後に何か言いたいことでもあるのか?」 「別にまだ何も言ってないでしょ?」  咲は途端に顔を背け、柵の上の指を機敏に動かせ始めた。僕は彼女のその横顔を見つめていたけれど、やがて小さな声で言った。 「……大丈夫、だよ。煙草はあまり吸わないし、酒もほどほどにするから」  僕がそう言った瞬間に、もう片方のスリッパで脛を蹴られた。僕のジーンズに、はっきりとした煤の跡が付いた。 「それ以外に何も、言わないと思ったの?」 「何も言わないと思ったけれど」  彼女の足からスリッパが飛んで、僕の後頭部に当たった。地味に、痛かった。 「馬鹿ね、ホント。私だって冷酷な魔女じゃないんだから、人情ってものをわかってるわよ」 「例えば、どんな人情?」 「借りているお金を十年後までに返せば、仕方なくだけど、許してあげるわよ」 「はあ」 「大学に入れるようにしてあげた恩を、五年後までに返せば、仕方なくだけど、寛容な心でもって、許してあげるわよ」 「は、はあ」 「引っ越しの手伝いをした恩を二年後までに返せば、仕方なくだけど、寛容な心でもって、女神のように許してあげるわよ?」 「あの……どんどんスパンが短くなってますよ?」  とにかく、と彼女はつぶやいた。 「あんたが帰ってくるのを、待っているからさ」  僕は思わず煙草をコンクリートの上に、落としてしまった。それは足元に落ちて、チリチリと音を放った。僕はそれを踏み潰すことがどうしてもできなかった。 「あんたが帰ってきた時に、言いたいことがあるからさ」  彼女はそう言って赤くなった頬を夕焼け色へと溶け込ませた。僕はぼんやりと彼女の横顔を見つめていたけれど、やがて小さくうなずいてみせた。 「わかったよ……必ず帰ってくるから」 「これは約束だよ?」  彼女はそう言って、僕の腕を強く握った。それは本当に強い掌の抱擁だった。彼女の掌の汗が、僕のシャツに染み付いて、温かく肌に溶け込んでいった。僕はその手に指を重ねて、ぐっと握った。 「じゃあ、もう行くわね」  彼女は雲から煌めく太陽のようにふっと笑った。彼女の幼げな顔が無垢な笑みを浮かべて、花を咲かせた。僕は大きくうなずき、元気でな、と笑った。彼女の笑顔に負けないように十八年分の想いを篭めて。  そこでふと、僕の眼下に黒い影が見えた。僕はふっとそちらを向いて、天井まで跳ね上がりそうになった。そこに、一人の女性が立っていた。歩道から手を振っている。どうやら咲の姿は見えないらしかった。 「浩君、ご飯作りに来たよ! 今日は一緒に、ゆっくりしようね!」  彼女はそう言って姿を消した。僕は微動だにせずに、ベランダの真下を見つめていたけれど、やがて鉄が軋む音を立てて、背後へと振り返った。 「必ず、帰ってきてね」  咲は先程と変わらないような無垢な笑みを見せると、スリッパを振り上げた。  僕ははっきりとそれが顔面に振るい落とされるのを見た。その束の間、――確かに彼女の宣告が僕の鼓膜に染み付いた。 「黄泉の国から帰ってきてね。…………バカ野郎ッ!」  了
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