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 夏休みが終わり、後期が始まった。  その日の私は、大学の図書館で「中世の歴史」の続きでも読もうと思っていた。  卒業単位が溜まり、就職先も決まり、何の単位にもならないことをしていたかった。  キャンパス内を歩く学生たちの中に黒い天然パーマの背の高い男が見えた。スーツを着ていて、一瞬わからなかったが、康之だった。十号館に入っていくところだったので、声をかけそびれた。    スーツで大学にいるなんて就活をしているか、ゼミ関係で何か発表する時ぐらいだ。康之は内定は持っているはずだから就活はないとして、ゼミで何か発表でもするんだろうか。教授の手伝いとかならありえるだろうか。    私はそんな疑問を抱いたまま、ゼミ棟に向かった。  歩くと軋む廊下を抜け、古びた木製のドア開けると、白髪だらけの老人・武田教授が笑顔で私を迎えた。私が所属するゼミの担当教授だ。 「やぁ、志乃さん」  顔は私に向いているが、両手はノートパソコンを高速でタイピングしている。あんな老人でもマルチタスクで作業ができるのかといつも感心させられる。  かつては、どこぞの大企業の相談役だったらしいが、この部屋にいるとただのパソコン好き老人にしか見えない。 「コーヒー飲みに来ました」  私は教授室の奥にあるサイフォン式コーヒーメーカーを手に取り、白いマグカップにコーヒーを注いだ。ゼミ生はみんなよくこの部屋にコーヒーを飲みに来ている。  教授は年輪を感じさせる皺だらけの笑顔を浮かべて、空になったマグカップを差し出した。私は頷き、そのマグカップにコーヒーを注いだ。 「志乃さんに入れてもらうコーヒーはおいしいね」 「元々、既に出来てたコーヒーです。誰が注いでも同じ味ですよ」 「いやいや、志乃さんのような美人に入れてもらうほうが、倍はうまいよ」  この人のすごいところはセクハラまがいな発言をしても、なぜだか許されてしまうところだと思う。 「そういえば、田中くんに何か頼んだりしています?」  世間話の終わりに私が言うと、武田教授は「はて?」と首を傾げた。本当に「はて?」と言う人を私はこの教授しか知らない。 「特に何も頼んだりはしてないな。頼まれることはあっても」 「頼まれる? 何をです?」 「そこは……田中くんのプライベートだからね。志乃さんと言えど勝手には教えられないなぁ」 「そう……ですか」  教授の言うことはもっともだった。しかし、康之が教授に頼むこととは何だろう。  また一つ疑問が増えたが、コーヒーのお礼を言って私は教授室を出た。  緩やかな坂を下って、生協の前あたりを通ると、康之にバッタリ会った。  私は康之に話しかけた。 「どしたの? スーツなんか着て。なんか発表でもするの?」 「いや……」  康之はばつが悪そうな顔をしていた。こんな表情は珍しい。スーツで大学を歩く理由がゼミ関係じゃないならば……、私は先ほど自分が捨てた考えを持ち出す。 「まさか……就活中?」  少し間を空けて、康之は頷いた。  なぜだ? と自分の中で疑問が生まれる。確か前期の頃に、康之は内定を貰っていたはずだ。それがなぜ半年経って再び就活などしてるのだろう? 「やっぱこのままじゃダメだと思って」 「え?」 「内定貰えたからってそこで決めてしまっていいのかって。もっとオレの可能性を試したいと思ったんだ。新卒って一回キリのことだろ? 可能性は試せるだけ試そうと思って」  わからなくはなかった。内定を一つ貰っても何社も受ける学生など珍しいことではない。私もいくつか内定は貰った。  しかし、四年後期になって就活を再開してまで、別の企業を探すとなると珍しいものとなる。  そんなに他も気になるのなら前期のうちに受けておけばいいだけの話だ。 「この前、内定者への説明会とか聞いたんだ。それで小さい見たこともない広告を作ってても未来は開けないなって思ってね。これじゃないなって思った。もっとデカいことできるもっといい会社があるはずだって」 「どんな規模の仕事するか事前説明とか自分で調べたりしなかったの?」 「多少はね。……えーっと、そう、会社側もちょっと盛ってたっていうかさ」 「でも、まさかとは思うけど……、そこの内定辞退したの?」  私がそう言うと康之は満面の笑みで頷いた。急に瞳が輝いたように見えた。 「うん。失敗した時のために、内定残してちゃダメだと思うんだよ。退路は自分で断とうと思ってね」  自信に溢れる顔を見て、私は何を言えばいいのかわからなくなった。 「それか、いつか企業する時のために、経営学を学べる院に行くのもいいかなとか考えたんだけどね」 「院?」  康之が大学院を目指すという話をしたことがあっただろうか。なんで急に院に行くとか言い出すんだろう。いやそれよりも、 「院の入学願書はとっくに締め切られたって武田教授にも言われてさ」  さっき武田教授が言っていた「頼まれたこと」とはこのことだったのか、私の頭の中で話が繋がりだした。 「本気で院を目指すなら、願書受付がいつまでかぐらい調べておくべきだと……思うよ?」 「院もやる気ある奴は年間通して門戸を開いてくれればいいのにね。というかさ、もし志乃も知ってたっていうなら教えてくれればよかったのに」  今の私が浮かべる笑顔は引きつっていないか、少し心配だった。院を受けるなんて話は間違いなく今初めて聞いたのだ。  それでも、康之にとって不親切だったのは大学や私なんだろう、そう思うことにしてその日は別れた。  飲みにでも行こうという声は丁重に断った。
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