ありがとう

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「ありがとう」 「え?」 「だから、ありがとうって!」 「なんの?」 「言いたくなっただけ。気にしないで!」  僕と彼女が出会ったのは二年前。  急に倒れた彼女をたまたま通りがかった僕が見つけて、救護したのがきっかけ。どうやら彼女には重大な持病があったらしい。その病名は僕には今の今まで打ち明けてはくれない。彼女が体調を持ち直して、あの時のお礼がしたいと食事に誘われてから、毎日のように会うようになった。  そしてその流れた時間は、僕達の心の距離を縮めていった。先に告白したのは僕。頬を染めながらOKをしてくれた彼女。その時の彼女の表情は今でも鮮明に思い出せる。  嬉しそうでいて。  悲しそうでいて。  僕にはその時、後者のその意味を知ることは無かった。今思えば……彼女には僕達の結末が見えていたんだろう。  そして半年と一カ月前。  彼女は入院した。  そして一カ月前。  集中治療室に部屋を移された。  そして今日。  僕達は、病院の屋上に作られた休憩スペース。小さな公園に居た。  面会の日。そして許された集中治療室からの移動。僕達にとってはささやかなデートになる。そう、ここ半年はここが僕達のデート場所なのだから。 「一緒に海に行きたかったなぁ……」 「元気になったら行こうよ」 「一緒に映画に行きたかったなぁ……」 「今は治療に専念だからね」 「一緒に遊園地に行きたかったなぁ……」 「……なんでさっきから過去形なの?」 「ううん。何でもない!」  彼女は僕を見上げる。ふわっとしたその笑顔。僕を恋に落とした笑顔だ。  その笑顔……永遠に……。僕はそう願っていた。  その仕草。  その心。  その体。  その。その……その全てを。愛おしく感じていた。愛していた。 「ずっと一緒に居ような……」 「え?」  思わず考えてたことが言葉に出る。彼女も意表を突かれたように、ハッとしそして冷静になって頬を赤らめる。 「な、なんでも……」 「嬉しいよ……とても……」 「え?」 「うん、その言葉、嬉しいの!」 「あ……うん」  さえない返事しか出来ない僕。それも楽し気に見ている彼女。  うん、ずっとそばに居たい……そう思える。本心から。彼女と一緒に。永遠に。これが僕の本当の気持ち。 「ずっと一緒に居ようね」 「はい! 喜んで!」  その彼女の笑顔は、僕の瞳に焼き付いた。  とても嬉しそうな表情。  とても悲しそうな表情。  僕にはその意味が分からなかった。  その夜。僕の電話が鳴り。病院に呼び出された。彼女の容体が急変したと。僕はすぐさま病院に向かい、彼女の病室に向かった。  間に合ってほしい。そんな思いで病室を走り回った。いつもはすぐに着くはずの彼女の部屋まで遠く感じた。無限の時間が流れている……そんな感じがした。  病室の前には、彼女の主治医がいた。僕はとびかかるように主治医に食って掛かる。今の気持ちを。焦る気持ちを。まだ救いがあると信じていることを。そんなものを主治医にぶつけた。 「彼女の容体は!?」 「残念ながら……」 「残念!? あんた医者だろ!! 彼女の主治医だろ!? 今まで見てきたんだろ? 今まで命をつないでいたんだろ? 何とか……何とか出来るって、言ってくれ……。昼間はあんなに……」 「……」  彼女の主治医は、僕の肩にそっと手を乗せる。そして落ち着くようにうながされる。  いや、わかっているんだ。わかっていたんだ。この日が来ることを。それを忘れていただけ。いや、触れなかっただけ。でもなぜ今日なんだとの想いもよぎる。本当は……この日の為に……心の準備をしてきたはずなのに……。 「余命宣告より、1か月。頑張りましたよ。これ以上はもう彼女は持ちません。最後の言葉を聞いてあげてください。もうろうとしていますが意識はあります。おそらく……最後まで。最後の想いを聞いてあげてください。早く!」 「……」  言葉も出せない僕の手を主治医は引き、彼女の病室まで連れていく。  覚悟……僕には出来るだろうか。  昼間まであんなに元気だったのに。  昼間まであんなに輝いていたのに。  昼間まであんなに生き生きしてた。  昼間まで。  昼間まで……。 「今まで口止めされていたんですが、かなりの鎮痛剤を面会の時に使っていたんです。貴方との時間を一秒でも大切にしたいからと。面会後は全身の激痛に苦しんでいました。それほどに貴方を。彼女は大切にしていたんです」  心配させまいとして。  心意を僕には伝えないで。  心願していた彼女。  心計できなかった僕への罰。  心眼が僕には無かったのだから。  心中に入れなかった僕だから。 「これは、彼女が決めていた事です。受け止めてあげてください」  僕の動揺に気が付いたのか、彼女の主治医はそう告げる。  彼女の意思。もしそうなら受け止めるしかない。僕はまだ覚悟になって居ない覚悟を決めた。  そして、病室の扉が開かれる。中央のベッドには彼女が横になっている。主治医に促されるように、僕は彼女の元に近づく。  一歩。  一歩。  この一歩。  この一歩が今まで経験した人生の中でも一番重い一歩と感じた。  彼女の元に近づくと、そこにはもう弱りはてた彼女がいた。僕はそっと彼女の手を握る。彼女は弱々しく僕の目を向ける。弱々しいその瞳の光は、焦点が定まっていない。  こんな……こんなになるまで……。僕の事を想ってたとは言え、本当に無理をして……。 「ごめん……ね」 「何がだよ?」 「一緒に……居れなくて……」 「いや、僕達はずっと一緒だから!」  明らかに衰弱していく彼女。僕はもう消えてしまいそうな彼女の灯が見えるようなそんな気がした。 「一人に……なっても……」 「もうしゃべるな!」  彼女の目から涙が一筋こぼれる。そして潤んだ瞳で僕に声を掛ける。必死に。ひねり出すように、最後の言葉をこぼす。 「し、あ……わせ……に……」 「頼む……もうやめてくれ……お願いだから……」  彼女の目から光が消える。僕はその瞳から視線をそらすことが出来ない。しかし、彼女の主治医は僕に何かを告げると、そっと彼女の瞼を手で下げてやった。  そして、やがてその手は熱を失っていく。先ほどまでは温もりに包まれていたその手が。血液を帯びてほのかに桃色だった肌も白くなっていく。先ほどまで動いていたその柔らかい唇も、もう二度と動くことは無い。  僕の本当に言いたかった言葉……心の奥底から言いたかった言葉。 「ありがとう」  一言。  一言だけど、この言葉に込めた意味は、より、より深い意味を持っている。  その言葉は喉元をから出ることなく、泡となって消えた。
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