注文の少ないレストラン

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 二つあったレンジの片方が空いたので、佐藤は隣の男に(なら)って中腰になり、自分の品の調理過程を眺めることにした。彼はキッシュの形をしたものが初めからあるのだと思っていたが、その予想は裏切られた。そこには、型に入れられ、重石(おもいし)(*1)を乗せてあるパイ生地だけがあった。生地(きじ)の空焼き(*2)からここでしているのだ。  庫内の左右には上からノズルが伸びており、それに加えて材料の投入口のようなものが見られる。先ほどまで別な料理をしていたにもかかわらず、庫内は清潔で汚れなどなかった。オレンジ色の光の中で、キスチョコにも似た重石(おもいし)達がキラキラと輝いている。これはだいぶ待つことになりそうだ。空焼きだけで10分くらいはかかるはずなのだから。  佐藤は立って背筋を伸ばした。これから何十分待たねばならないのだろうか。このままいくと平気で一時間近く待たされそうだ。その間ずっと中腰のままというのはあまりに(こく)だ。腰に手を当てて店内を見渡す。この自販機のほかには、壁に向かったカウンター席しかない。もちろん、花の装飾があったり、壁のディスプレイには美しい絵画や荘厳(そうごん)な景色が映され、店に彩りを与えている。しかし、それらを除けば随分簡素なつくりであった。  一人の客が食べ終わったようだ。客の姿勢が正されると、椅子は音もなく自動的に引かれる。彼が席を離れると椅子は元に戻り、カウンター上の食器は、テーブルの表面ごと壁に吸い込まれていく。よく見ると、席と席は突起で仕切られていて、空席のみが少しくぼんでいる。料理をのせた盆をはめ込むような仕組みのようだ。 「見ていないでいいんですか。」  カウンターの仕組みに感心していると、不意に声が聞こえた。周りを見回すと、隣のレンジを(のぞ)き込んでいる男がこちらを見上げている。 「ええ。何十分かかるか分かりませんし。」 佐藤は迷惑そうに言った。彼は見知らぬ人に、大した用もないのに声をかけられるのが嫌いだった。自分には全く理解できない行動だからだ。 「いや。そんなにかかりませんよ。確かにあなたのキッシュは時間がかかる方ではありますが、それでもせいぜい10分前後です。」 男は、親切そうな笑みのまま笑い、(さと)すように言った。  佐藤は(あわ)ててレンジを(のぞ)き込んだ。見れば、先ほどまで入っていた銀色の重石(おもいし)の代わりに、もう赤いベーコンと緑の野菜の彩り豊かなアパレイユ(*3)が生地に盛られている。 「そんな、まさか。」 佐藤はあまりのことに驚き、声を()らした。 「ここを利用されるのは初めてですか?私もはじめ来た時は驚きました。目の前でみるみる料理ができていくのですから。」 男は得意げに語り始めた。  この手の(やから)はどこにでもいる。佐藤の一番苦手なタイプだった。常連面をして初心者を見下し、聞いてもいないことを喋り続ける。彼らはそれを親切だと勘違いしているのだろうが、ただの利用者の立場で玄人(くろうと)を気取れる神経が彼には分らなかった。男は引き続き何かを話していたが、佐藤はそれに耳を貸さずに目の前の調理風景に集中していた。  型の高さ一杯に満たされたアパレイユが時々泡を作りながら熱せられている。表面に見えるベーコンは赤茶色に色づき始め、玉ねぎは透明感を増す。香ばしくほんのり甘い香りがレンジから()れ出してくる。彼は、自分の手で調理する時よりもはるかに変化が早いのが不思議でならなかった。こんなことが可能なのだろうか。質を保ったままこんなことが可能ならば、今頃料理の現場には革命が起きていてもおかしくはなかった。  やはり味は期待できないか。彼はため息をついた。ため息をついてから、自分が少なからず期待していたことに気が付き、顔をしかめる。  程なくしてノズルからチーズが振りかけられ、最後の加熱が始まった。レンジから漂う香りは更に香ばしくなり、冷めた期待とは裏腹に、彼の口の中では勝手によだれが()いて出る。 「チン」  まさにレンジのような安っぽい音を立て、調理器の明かりは消えた。すると、カウンターと同じ色の板に乗った出来立てのキッシュが滑り出てくる。ジュージュー音を立てながら湯気を吹き出す様を見れば、空腹でなくとも誰だって食欲をそそられるだろう。  佐藤は香ばしいチーズの匂いに鼻をふくらませながら空いている席に近付いた。すると、椅子は自動的に引かれ、座りやすくしてくれる。座ってカウンターに板を軽く置くと、静かにくぼみに収まった。そこには、まるで元々一つながりであったように隙間がない。料理に気をとられて気が付かなかったが、お盆にはナイフとフォークも付いてきていたらしい。  ここまですっきりともてなされると悪い気はしない。しかし彼は気を取り直した。これはあくまで偵察(ていさつ)。楽しみに来たのではないのだ。それに、見た目と香りがいいとはいえ、味に期待できるはずはないのだ。まんまと膨らんでしまった胸の空気を吐き出し、改めてナイフを握りしめた。 「サクッ」  手に力を入れてしまったせいもあってか、案外すんなりとナイフか通る。中からは閉じ込められていた湯気が上がった。十分に火が通っている証拠だ。口に含むと野菜とベーコンの旨味が広がり、食感もしっとりと軽い。本格的なキッシュである。佐藤は混乱しながら頬張(ほおば)った。こんなはずはない。あれだけでたらめな時間配分でこれほど上等なものが作れるわけがない。むらもなく、パイ生地と具のメリハリのある食感。これがあんなに簡単に作れたら誰も苦労はしない。  佐藤はあっという間に完食し、逃げるように店をあとにした。食器が吸い込まれる様を見る余裕も持ち合わせていなかった。 <注釈> *1 重石―パイ生地やタルト生地を空焼きする際、底面が膨れて形が崩れるのを防ぐために用いる細かい重し。表面は銀色をしている。 *2 空焼き―タルト生地をカラッと仕上げるために行う、水分を含んだ具を入れる前に生地だけに火を通す工程。 *3 アパレイユ―混合生地。粉、卵、バターなど数種類の材料を下準備として混ぜ合わせたもの。パイやキッシュ、タルトの中身のこと。
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