竜の涙は真珠色

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竜の涙は真珠色

 太陽は、空を支える竜テルぺスによって生み出されるものだという。相棒の竜、ユレヒトに乗ったカイルは豊かな胸を弾ませながら、白く輝く天上の輝きを仰ぎ見た。  もうすでに陽は西の海へ、死の竜オケローンの領域である死海へ消え失せようとしている。死海は文字通り塩分濃度の高い死の海だ。その海にテルぺスの吐いた太陽は落ちていく。  落ちて、文字通り暗闇の世界が、幾億の竜によってもたらされる。  青い空は、巨大な竜の陰影によって覆われ、暗い夜の空へと変わっていた。 星の煌めきは竜の眼の瞬き。夜空を彩る星々は、無数の竜たちの瞳なのだ。  銀色に輝くユレヒトに乗ったカイルは、ほうっと桜色の唇を開けて幾億の竜の亡霊が織りなす光景に心奪われていた。 『カイル……。歌を……』  ユレヒトの声が脳裏に響く。カイルは、桜色の唇からそっと歌を奏でていた。夜空の星が瞬く。竜たちが涙を流したのだ。真珠色の涙は、流れ星となって暗い夜空を彩っていく。  その夜空を銀の髪を翻す、カイルの歌が彩っていく。  歌は鎮魂歌。愛しい竜たちを想う、巫女たちの歌だ。  カイルたち竜の巫女は、相棒となる竜と共に愛する竜を失った乙女たちの心を慰める歌をうたう。その歌は、同時に夜空に浮かぶ竜たちを慰める歌でもあるのだ。  夜空を創る竜たちは、相棒たる巫女の少女たちと恋に落ちた竜たちだ。異種族である少女たちと結ばれる代わりに、彼らはその命を天空の竜テルぺスに食喰われる。テルぺスに喰われたが最後、竜たちは影の存在となって夜を司る竜となるのだ。 『親父がいる』  ユレヒトが嬉しそうな声をはっする。ユレヒトと同じ青い星の眼を瞬かせる巨大な竜の影が、カイルたちの横側をゆったりと横切っていく。  カイルの相棒ユレヒトもまた、人である巫女と竜のあいだに生まれた子である。物心ついたころからユレヒトの母は独りで子育てに勤しんでいた。それを、竜を愛したからだとユレヒトの幅は言った。だから、竜を愛してはいけないよと義母である人は言った。  ユレヒトとはあくまで義兄妹でありなさいと。 「夜になれば……会えるのに……」  自分たちの側を横切る竜の陰影を見つめながら、カイルはほうっとため息をつく。夜の竜たちは未来永劫、夜の空から解き放たれることはない。ずっとずっと恋した女を思いながら、夜空で泣き続けるのだ。 『でも、愛した女はすぐに死ぬ』  ユレヒトの暗い声がする。カイルはその言葉に何も言い返せなかった。だからこそ、竜たちは愛しい女に子を残して死ぬのだと、亡くなった義母は言っていた。 「天を壊せれば、愛する者はバラバラになんてならないのに……」 『天が落ちたら、この世界が終わる……』  カイルの言葉にユレヒトはそっと己の眼を細めていた。青いユレヒトの眼は、天空の青を想わせる。その美しい天空が壊れないかぎり、竜と人が完全に結ばれることはないのだ。 「なんだか、寂しいね。それ……」 『だから、俺たちは竜を失った巫女たちの声を届けるんだ』  先端に大きな爪のついた銀色の翼を翻し、ユレヒトは大きく跳躍する。ユレヒトの背の上でカイルは立ち上がり、再び透明な歌声を奏でていた。  響き合う  響き合う  響き合う  竜の鱗が響き合う。  手に持つユレヒトの鱗をかち合わせながら、カイルは妙なる歌声を周囲に響き渡らせていく。カイルの歌声は愛しき竜を亡くした巫女たちを悼む歌だった。そんな巫女たちを忘れないで欲しいと願う、竜たちへの懇願の歌だった。  ユレヒトの上でくるくると体を回しながら、カイルは鱗のついた腰布を翻す。真珠色の流星を映し込む腰布の鱗は、カイルが回るたびにかち合い、玲瓏な音を奏でるのだ。  歌を口ずさむたび、愛とは何であろうかとカイルは考える。その中でも、恋という感情にカイルは人一倍疎かった。  恋は心の病だと、義母は言っていた。恋をすればそこに種族は関係なく、恋をすればどんな相手の欠点も見えなくなる。恋をすれば盲目になり、そこに死が待っていることすら人と竜は忘れるのだ。  では、自分は誰を愛するのだろうかとカイルは考える。その人物が思い浮かばなくて、カイルはいつももやもやとした気持ちを抱くのだった。  星辰の谷に、夜に歌う巫女と竜たちの集落はある。集落の星の丘に足をつけたとたん、ユレヒトの体は竜のそれから人の男へと変わっていた。カイルと同じ銀の長い髪に、青い眼。細い線の体はそれでもバランスよく筋肉がついており、見る者を感心させる。ユレヒトの腕に抱かれるカイルは、自身とそっくりな髪と眼を持つ義理の兄をまじまじと見つめていた。  たしかに、人の姿をとっている彼らは美しい。彼らと巫女が恋に落ちる理由もよくわかる。  もちろん、見目が美しいことだけが恋に落ちる理由ではないが。  青い空を想わせる義兄の眼は、竜の流す真珠の流星のようにときおり光を帯びる。その光が、カイルは心の底から大好きだった。  その光が義兄の優しさを表しているようで、心が温かくなるのだ。 「どうした? カイル」 「なんでもない」  ユレヒトに見惚れていたなんて口が裂けても入れない。カイルはそっとユレヒトから視線を逸らしていた。ユレヒトはそんなカイルに微笑みかけてみせる。  そのときだ。星の丘の頂に生えた釣鐘草の花がいっせいに鳴り始めたのは。りぃんりぃんと鳴って、それは竜たちにあることを伝える。 「なに?」 「爺さまだ! 爺さまが夜になろうとしている!」  ユレヒトが叫ぶ。  爺さまとは星辰の谷を治める最長老の竜のことだ。その竜が身罷ろうとしていることを、釣鐘草たちが教えてくれた。  ユレヒトの体が銀の光に包まれる。ユレヒトは、竜の姿に戻っていた。彼はカイルを背に乗せた状態で、谷の奥深くを目指し、滑空する。カイルを取り囲むように、巫女たちを乗せた竜の陰影が釣鐘草の生えた大地を彩っていく。 「みんな、爺さまのところに……」 「ああ、爺さまも夜になる時が近いんだろう……」  ユレヒトを先頭に、巫女を乗せた竜たちは爺さまのいる巨大な鍾乳洞へと向かっていく。竜の牙を想わせる鍾乳石をいくつも潜り抜けた先には、地底湖がある。その地底湖に巨大な銀の竜が漬かっていた。  齢数千年を生きた爺さまは、くすんだ銀の鱗に大量の苔を生やしている。長く動いていないため、爺さまの背には様々な生物が棲みついていた。  地底湖の淵にユレヒトがとまる。すると、爺さまの背で休んでいた蝙蝠たちが、一斉に爺さまの背から羽ばたいていく。他の竜たちも、爺さまを取り囲むように泉の淵に止まる。 『我が子たちよ……』  爺さまが鳴く。爺さまの言う通り、血が繋がらなくても爺さまは星辰の谷のみんなを我が子のように可愛がってくれた。孤児のカイルもそれは同じだ。 『もうすぐ私の命は尽きる……。その魂は空の竜テルぺスによって喰われ、私の体は夜を司る竜の陰影をなるであろう。そうなる前に頼みがある。この身に生える鱗の一欠けらだけでもいい、あの人と共にに眠ることを、空の竜テルぺスに許してもらえるよう交渉できないだろうか……? 難しいということは分かっている……。けれど私の心は、あの人と共にありたいのだ……』  爺さまに子はいない。それは、短いあいだだが連れ添った巫女である婆さまと少しでも長い時を過ごしたいという望みから選ばれた選択肢だった。巫女が竜の子を孕めば、竜は死に空の竜テルぺスにその魂を喰われる。そうして、夜を司る竜となり夜の空を未来永劫さまよい続けるのだ。 『もうすぐ、テルぺスが私を迎えに来る。どうかみんな、私の願いをテルぺスに届けておくれ……』  爺さまの青い眼がそっと閉じられる。  カイルはその眼を見ながら、爺さまと過ごした日々に思いを馳せていた。  カイルの背丈ほどもある爺さまの眼を鏡代わりにして、爺さまに怒られたことが懐かしい。爺さまの背に生えた古い鱗をとれば、爺さまは本当に嬉しそうにその眼を細めてくれた。  ふとあたりがことさら暗くなっていることにカイルは気がつく。ただでさえ寒い鍾乳洞の中が、いっそう冷えている。 『テルぺスが来るっ!』  ユレヒトが低い声をはっする。その声に、カイルは眼を見開いていた。  黒い竜の影が赤い眼をぎらぎらと光らせながら、鍾乳洞の壁面を這っている。カイルはごくりと唾を呑み込んで、ユレヒトの首にしがみついていた。  空の竜テルぺスの影だ。爺さまを喰いに来たのだ。  閉じられていた爺さまの眼がかっと見開かれる。牙の並ぶ口を大きく開け、爺さまは悲しげに嘶いてみせた。  ほろりと、爺さまの眼から真珠のような涙が零れる。その涙は球体となって、鍾乳洞の壁面を覆う、テルぺスの影へと吸い込まれていった。  爺さまの眼が力なく閉じられる。テルぺスに魂を喰われたのだ。  それから、変化はすぐに起きた。虚ろな眼をした爺さまの遺骸が、翼を大きく広げたのだ。傷つき、穴すら開いている皮膜を広げながら、爺さまの遺骸は咆哮をはっする。銀の体は黒い影に包み込まれ、爺さまの体を漆黒に染め上げていくのだ。  夜を司る竜の陰影に爺さまはなろうとしていた。爺さまは大きく嘶き、地底湖から飛び立ったのだ。大きな波が湖畔に押し寄せ、竜たちに振りかかる。その波にのまれないよう、カイルはユレヒトの体にしっかりとしがみついていた。  波にゆれる視界の中で、カイルはテルぺスの影に引き連れられ、洞窟を出ていく爺さまの姿を見送る。竜の牙を想わせる鍾乳石をへし折りながら、爺さまは出口に向かい飛んでいく。 『行くぞ!!』  ユレヒトが吠えた。その声に、カイルはしっかりとユレヒトに掴まることで応える。そんなユレヒトに応えるように、他の竜たちも雄たけびをあげる。カイルはユレヒトの首にしがみつき、その腹を蹴った。   準備が出来たという合図だ。その合図を受けてユレヒトは嘶く。  竜たちが飛び立つ。妙なる乙女たちの歌声が洞窟に響き渡る。それは、爺さまの悲願を空の竜テルぺスに伝える歌だった。   テルぺスの影と爺さまを追いかけ、竜と巫女たちは洞窟を抜け空へと飛び立つ。竜の陰影が形作る夜空に躍り出ると、真珠の涙を流す竜の陰影が流星を降らせているところだった。  その竜の陰影の中へと、爺さまは消えていく。 「待って!」  カイルは思わず爺さまを呼んでいた。それでも、幾億幾万の竜の陰影の中から爺さまをさがすのは容易ではない。 『呼びかけろ! カイル! 歌をうたうんだ』  ユレヒトが叫ぶ。カイルははっと青い眼を大きく見開いて、高い声音をはっしていた。竜の嘶きに似たそれに、影となった爺さまの眼が大きく見開かれる。竜たちの嘶きを真似しながら、カイルは心の中で願っていた。  どうか、どうか。爺さまのすべてを連れて行かないで欲しいと。たった鱗の一欠けらでもいいから、婆さまのもとに残しておいて欲しいと。  ――では、なぜお前たちは恋をする? お互いを求めあう? 異なる者なのに、惹かれ合うのだ……?  頭の中で声がする。爺さまのそれとも、ユレヒトのそれとも違う声。ぎょっとしてカイルは歌うことをやめていた。 『カイルっ!』  ユレヒトの声がするが、カイルは何も答えることができない。誰がカイルに語りかけているというのだ。  そのときだ。数多の竜の陰影が退き、巨大な赤い眼玉がカイルを睨みつけたのは。  ――何も知らぬ幼子よ。なぜ、禁忌を犯してまでお前たちは共にいたがる? 「どうして、あなたはその禁忌を許すの!?」  カイルは叫んでいた。  恋というものをカイルは知らない。ユレヒトに抱く信頼が、やがて恋という形をとるかもしれない可能性すら、彼女は気がついていない。  でも、カイルはそれをいけないことだと思ったことは一度もなかった。愛しい伴侶を失っても、幼いユレヒトを抱く義母はとても幸せそうだったから。  ――この子は、あの人が残してくれた証だから……  そう彼女は潤んだ眼を細めて、カイルに笑ってくれた。  もし、竜と人が結ばれることが禁忌というなら、なぜ自然を司る竜たちはその行いを許しているのだろう。なぜ、死に別れてから、わざわざ罰を与えるような真似をするのだろう。  ――止めたくても、止められるのだ……。その想いを、その気持ちを、私たちはお前たちから奪うことはできないのだよ。  赤い眼玉は、天空の竜テルぺスはカイルに応える。そのときだ。赤い眼玉を遮るように、影となった爺さまがカイルたちの前に躍り出てきたのは。  黒い色をした爺さまの体には、青い眼がついている。その眼からほろほろと、真珠色の涙が零れていた。その涙の一粒が、風に乗ってカイルのもとへとやってくる。  カイルは、その真珠色の涙をつかみ取っていた。  婆さまの遺骸は、爺様のいた鍾乳洞に納められている。カイルが生まれたときにはもう白い骨になっていたその人は、爺さまによっていつも綺麗な服を着せられ、石板の上に寝かされていた。  その骨になった婆さまの首に、カイルは美しい真珠の首飾りをとりつけていた。あの日、影の竜となった爺さまが流した涙だ。 「これで、ずっと一緒だね。爺さま……婆さま……」  骨になった婆さまを見つめながら、カイルは静かに言葉を紡いでいた。けれど、カイルの隣にいる人の姿をしたユレヒトは、青い眼を曇らせるばかりだ。 「本当に、これで一緒って言えるのかな?」  ユレヒトが、カイルに問いかける。その涙が潤んでいることにカイルは気がついていた。 「ユレヒト……悲しいの……?」 「カイルも、いつかは俺の元からいなくなるんだな……」 「竜の寿命は、人間よりも長いもの……」  ユレヒトがカイルを抱き寄せる。あっと声を発した時にはもう遅く、カイルの体は彼の腕の中に納まっていた。 「嫌だ……。そんなの……。ずっと一緒にいたのに……」 「無理だよ……。私はユレヒトより先に死ぬ。だから、爺さまがそうだったみたいに、私のことを忘れないで……」 「でも、俺は嫌だ……」  ほろりとユレヒトの眼から真珠色の涙が零れ落ちる。その涙を見て、カイルは言いようのない胸のときめきを感じていた。どうしてこれほどまでに、彼は優しいのだろうか。その優しさが心の底から愛おしい。  カイルは青い眼を細めて、義兄であるはずのその人の涙を舐めとっていた。
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