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再び伏せた視線の先に、ふたつに割れたカップが落ちていた。愚行の決定的な証拠だ。
やるせない思いを抱えつつ、懸命に声を出して眼前の罪を詫びた。
「ごめんなさい、カップ割ってしまって。弁償します」
「安物だから気にしないでよ」
「でも!」
「買わなくても替えはある。さっそく飲みたいな。淹れてくれるかな?」
咎める素振りなど皆無。さり気なく話題すら逸らす優しさがシエラの心をじんとさせる。
「はい」と頷き用意に歩きかけた振り向き様に、またの声を受けた。
「あ、ふたつね?一緒に飲もう。落ち着いた方がいい」
イヤミなく語る言葉に含まれるのはただいたわりだ。慈愛を感じシエラは目頭を熱くさせた。
今にも泣きそうで、けれどこの男に涙は見せないと己に約束した。
小麦色の髪を揺らして逃げるように厨房へ駆け出す。
瞳にたまった滴が宙を舞い、床掃除を終えてコーヒーを淹れ直す際にはしょっぱい液体が頬を濡らしたのだった。
*
男女は肩を並べてイスに座る。だが何口目かのコーヒーを楽しむ男に対し、女はカップを両手で包んだきり無言。上がる湯気をぼんやり見続ける。
考えれば考えるほど、時間が経過するほど罪の意識が膨らむ。手は震えてカチャカチャとソーサーが音を立てる。
我慢の限界を超えた彼女は押しつぶされそうな声で弱音を吐いた。
「怖い。自分が何を考え、何を突然しでかすかわからない」
人を寄せ付けぬ暗雲の壁を作り自らを覆っていた彼女。いまはまだそっとしておこうと沈黙を貫いていたウィル。
しかし出番のようで、カップを置き瞳を隣人の横顔に向けた。
「大丈夫だ。オレが保証する。オマエはいい子だよ」
「ワタシ殺人未遂を犯す女よ!?許されない」
「イカれてると自覚してるなら平気だよ。あとは公共の場で間違いを犯さないような判断力と自制心さえあればいい。捕まらずにすむ」
「一緒にしないで!あなたはそんな考えだから人を殺せるのね!」
落胆から一転、同意しかねて反論だ。優しいだけではない。やはり彼は暗殺者。冷酷さを垣間見せる。
「それが仕事だからね」
不敵に笑い、ウィル自身も己の冷血な根っからの狂気を肯定する。
「オマエとは住む世界が違う。オレの職業を知った上で側にいたいならもっとしたたかで物事を割り切れるようになった方がいいと教えておくよ。だけどオマエにそんなの求めないけどね」
そうして瞳に住む女の頬にそっと手を置いた。
「今のままでいてよ。感受性が強く、媚びず、誰とも違う女だから側にいてほしいんだ」
勝手を告げるカタキ相手に、でもシエラの心は奪われていた。
いつしか身すら抱きしめられ、当然のように受け入れた。腕の中で声を聞き続ける。
「泣き顔も笑顔も見せてくれない。けれどいつか見せてくれると確信してる。こうして抱きしめられる事に今は感謝してる」
「あなたを傷つけようとした女に謝礼なん……」
「もういい。オマエは殺人でなく嫌がらせをしようと思ったんだ。それがオマエの復讐だったんだよ」
会話を重ねて優しく遮り、穏やかに断言した。
これを機に彼は話題を切り替える。先を見通した計算内の質問を。
「朝言ってた怖い夢の話は本当?」
静かに首を横に振ってシエラは白状した。
叱ってほしかったがウィルには無理な話。怒気の欠落した男なのだ。
「あなたを騙したの。優しさに背いたの」
「そうでもなさそうだよ。オマエは落胆しやすいし気にする性分だから今夜あたり本当に悪夢見るかもね。側にいてあげたいな?」
「うなされて自業自得。罪は背負います。ワタシを甘やかさないで」
「償いたいならオレを側に置いてよ。オレの望みを叶えてよ」
「それではワタシのためにならない。責任を取らないままあなたの優しさにすがれない」
「オマエは自分に厳しいね。好意は素直にありがたく受け取るものだよ?一緒にいたいと利害は一致してる。ね、オレの要求受け入れてくれるよね?」
結局は拒み切れずに終わったシエラ。どう転んでも優位に運ぶウィルの作戦に引っかかり、夜はベッドでのキスに沈んだ。
復讐などキスを受け入れる時点で彼女には不可能。カタキ相手が弱点。愛しくて失いたくない人だから。
身を焦がすほどの愛に生きる未来はもう間近なのだから。
end.
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