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【10】
「詳しい経緯は分からないけどね」
秋月さんは声を潜め、私にだけ聞こえるようなボリュームで話して聞かせた。「あの土地に良くないモノが集まるようになったという噂は、私も聞いたことがあるよ。直接何かの事件に関わったことはないし、あんたの話を聞くまであそこが『美晴台』だってことさえ思い出せなかったけどね。でも、そもそも人が多く住む場所では不平不満が沈殿するものだし、空気が歪むほど悪い気が溜まる、なんてのもよくある事なんだ。団地みたいな集合住宅はその最たるものでさ。だから、事の発端が生きた人間なのか、死んでしまったあの世の者なのかは分からないけど、住人か、管理者か、当時の誰かが天正堂を頼ったんだろうという推測は出来る。『崖団地』の名前だけは聞いて知ってたくらいだから、ある程度、団体の中でも要注意な土地として情報が共有されていたんだと思う。私は多分その頃にはチョウジにいて、不真面目で適当な感じでしか仕事に参加してなかったし、すぐに辞めちゃったからアレだけど、それでも、『生き地蔵』と呼ばれたその男のことはよく知ってる」
秋月さんは更に私に顔を寄せ、ほとんど鼻の頭がくっつくくらいの近い距離で私の目の奥を覗き込んだ。
「あんたたちが住んでいた当時、境界線に立っていたというその男はきっと、疑似的な辻に立つ事によって淀んだ悪い気を受け流していたんだと思う。辻占説法を得意としていたその男はね。ほとんど魂レベルといって差し支えないほど人間の深い領域にまで入り込み、人の心に沈んでいる本性や悪意を掬いとって浄化させる事が出来たんだ。私が肉体的な治癒を施すのと対照的に、彼は精神と心の治癒を専門に行う霊能者だったんだよ。生きた人間が捨て去る淀んだ悪い気というものは、時にこの世ならざるものを引き寄せ、稀に霊道を開いてしまうことさえある。崖団地に出るという存在も、開発事業を背景にした地元民と新規参入者の間での軋轢が関係していた……のかもしれないし、私にそれは分からない。だが恐らく同じことを考えた境界線に立つ男は、一計を案じ、悪い気が霊障化することを避けるために……そうだなぁ、平たく言えば、団地を、守ってくれていた」
――― そうですよね? 御曲りさん。
「……!」
言葉にならない悲鳴が喉元で破裂した。秋月さんは私の両手をテーブルに押さえつけたまま、見開いた目で私の中を覗いている。
「やめて、六花さん」
湧き上がる恐怖を抑えきれずにそう声を漏らした私に、
「シッ。出て来るんじゃない」
と秋月さんは目を細くして窘めた。「今はあんたじゃなく、こちらの方と話をしているんだ」
こちらの……方……。
「お久しぶりです、御曲りさん。いや、それだと失礼ですよね。アマハラシュウサクさんと、お呼びしたほうがよろしいか?」
「ア」
――― アマハラ。……アマハラ。
聞いたことがある。私はかつて一度だけ、この名前をどこかで聞いたことがあるはずだ。アマハラという響きだけはしっかりと耳に残っている。しかしそれがいつだったのか、どこで誰から聞いたのか、この時は全く思い出すことが出来なかった。
チリンチリーン。
不意に喫茶店のドアベルが鳴り響き、私の眼球がそちらを向いた。店の入り口に背を向ける形で私の前に立っている秋月さんはしかし、そちらを見ようとはしない。
確かにドアベルは鳴ったのだ。だが、そこには誰もいない所か、入り口の扉が開いた様子もなかった。そこへ突然、カウンターの中にいたと思われるマスターの手島さんが、派手な音を立ててスチール製のトレーを落っことした。私の身体は恐怖と驚きに跳ね上がろうとしたが、私の手を押さえ込む秋月さんの力がそれを許さなかった。
秋月さんが囁く。
「私を見て、希璃。良くないものが入ってきた」
私は言われた通り秋月さんの目を見つめることで、恐怖から逃れようとした。 だが、駄目だった。
ヒタヒタ。
……ヒタヒタ。
……ヒタヒタ。
私と秋月さんのすぐ脇の通路にそれは来た。湿り気のある素足を思わせる音を立てながら、それは歩いて現れた。
「見るな」
と秋月さんは言った。
見てなんかいない。見る訳がない。
だがそれは、見てもいないのに私に姿形を知らせて来た。
その者は、首から上が無いのに嗤っていたのだ。
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