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【11】
私も秋月さんも、人並み以上に霊感が強い。
この世に人間がいる限り、誰もが常に死者の魂と隣り合わせで生きている。私たちは誰よりもその事を知っているし、そこにあるのは恐怖だけではない。かつてこの世を生きた者たちへの哀しみさえも、より身近に感じて生きている。
が、それでもこんな存在は知らない。側に歩み寄られただけで全身の毛穴が一斉に開いた。悪寒と恐怖が同時に来て、息をするのもを忘れた。
私の友人はかつて、こう教えてくれた。
――― この世に彷徨い出でる幽体たちは皆、彼らが死ぬ直前に抱いた強い気持ちを、そのまま持ち帰って来るのだ。
ガリガリに痩せこけた、素っ裸の男性だった。首から上がなかろうが、何を見ずとも直接脳に映像が叩き込まれて来る。私がこれまで感じたどの霊体よりも、己の存在を誇示する顕示欲が強いように思われた。頭部がない。にもかかわらず、肩を揺すって手をヒラヒラさせていた。その姿はやはり、嗤っているようにしか見えない。だがひょうきんな動きとは裏腹に、その者の身体は見るも無残に青黒い痣に埋め尽くされていた。ドロリとした血の浮いた傷が無数に切り刻まれ、頭のない首の切断面には蛆がくねくねと這いまわっていた。
この霊体が抱えた死の間際の感情など、私には全く想像出来なかった。
秋月さんは血走った眼を見開き、私の中を見つめている。
私は秋月さんの目に映った自分を見据えて、娘の事を考えた。
――― 娘は、夫の側にいるから、大丈夫だ。
素っ裸の男性が、両手の指先をくるくると回転させ始めた。
「あ、あ、ああ、あ……あがが」
秋月さんがゆっくりと大きく口を開き、喉の奥からくぐもった声が漏れ出た。見るからに、それは彼女の意志に反していた。あえぐように口をぱくぱくさせながら、秋月さんはテーブルに押し付けた私の手の上から自身の両手を離し、左手で自分の首を締め、右手を水の入ったコップへと伸ばした。細く長い彼女の右手の指が、めちゃくちゃな動きで空中を掻きむしった。
私の身体は恐怖に硬直し、涙だけがとめどなく流れた。
――― あの娘は絶対大丈夫。
新開くんがいるから大丈夫だ。
例え私に何があっても、新開くんがいるから絶対に大丈夫だ。
「……」
何かが、聞こえた。
声だった。
私の目が無意識にそちらへ吸い寄せられる。
大きく口を開いていた分、
「キ……ッ!」
秋月さんの制止の声が一瞬遅れた。「見るなッ!」
「……あ」
見てしまった。
私と秋月さんの横に立っていたのは――― 。
バキャッ!
激しい音をたて、テーブルの上で水の入ったコップが突如として砕けた。
「……ッ!?」
――― 立って、いた、の は……?
「誰も……いない?」
そこには誰もいなかった。傷と痣に埋め尽くされた首のない素っ裸の男性など、そこにはいなかったのである。
水滴がポタポタとテーブルから落下する音で私は我に返った。目の前では、秋月さんが店の入口を恐ろしく鋭い目で睨みつけていた。彼女の右手は砕けたコップの破片によって傷つき、血が垂れていた。
「くそっ」
秋月さんはそう毒づいて、左手で傷を覆う。そしてその手を離した時には、真新しかった傷口は綺麗さっぱり消えていた。彼女の怒りはしかし、コップの破片で手を切ったことに対してではないように思えた。
「六花さん! いい、今のは!?」
秋月さんが窮地を救ってくれた、ということだけはわかる。だがたった今何が起きて、彼女がそれにどう対処したのか、そしてあれは一体全体なんだったのか、私には全てが謎だった。
「あれは……多分、ノロ……」
秋月さんが答えを口にしようとした、その時だった。突如彼女の携帯電話が鳴り響き、私たちの緊張をさらに強い衝撃で切り裂いた。さしもの秋月さんも体をビクつかせ、そして照れた顔を右手で覆いながら空いた方の手で電話を掴み取った。
「秋月」
照れ隠しに強くそう言ったきり、秋月さんは自分からは声を発さず聞く事に徹した様子だった。だが、突然彼女は語気を強めてこう言った。
「呪い?」
睨むような彼女の目が私を見やる。驚くのも無理はない。秋月さんは今しがた、私にむかってまさにその言葉を口にしようとしていた。だが不意打ちで電話をかけてきた人間に先を越されてしまったのだ。
「え、ちょっと待ってよバンビ、本気で言ってるの? 本当に? 本当に呪いを受けたって言うの? あの……三神さんが?」
しかも電話の相手である坂東さんから聞いた被害者は、私でも秋月さんでも、夫の新開水留でもなかった。なんと夫の師匠である、三神三歳だというのである。彼は天正堂階位・第三の称号を持つ、その実力は折り紙付きの呪い師である。
チリンチリーン。
ドアベルが鳴って、私たちは激しく振り向いた。
授業を終えた女子高生が二人、談笑しながら入って来る所であった。
了
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