【3】

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「あんたの旦那の話も……」  オーダー待ちの手島さんに、秋月さんはアイスコーヒーを注文し、私に目配せして「何飲む?」と無言で聞いてくれた。手島さんに叱られた私は肩を落としてしょぼんとしながら、「手島スペシャルを」と小声で答えた。 「パフェかよっ。……そう、あんたの旦那もね、ちょくちょく現場で名前を聞いてるよ。頑張ってるよねえ」 「ありがとうございます。でもまあ、六花さんの仰った通り、結局新開くんと六花さんの上に坂東さんがいるんだし、みーんな仲良しだから、これはもう家族経営みたいなものですよね。お給料の出所が違うだけで」  秋月さんはうんうんと頷きながらも、じっと私を見据えて、やがてこう言った。 「今でも、新開くんって呼んでんだ?」 「やーめーまーしょーよー、その話はもー」 「そっかそっか。じゃあ、やめとこうか。いや、別にあれだよ? 思い出話をしようとしたわけじゃないよ。蒸し返すようだけど、幸せならいいじゃないって、本気でそう思うからさ。逆になんでずっと苗字で呼ぶのかなぁって、ほんとただそれだけ。別に、うん……文乃の話をしたいわけじゃないんだよ」 「文乃さんの話をするのが嫌なんじゃありません。気を遣われたくないだけなんです」 「分かってるよ。だけど一番気を遣ってんのは、あんたじゃないのかなって」 「そうでもないですよ。気楽な方を選んでるだけなんで」 「旦那を苗字で呼ぶことが?」 「距離感を変えないでいることが、ですかね。良く言うじゃないですか、夫婦になっても敬語を使い続ける方が御互い尊重しあえて良いって。親しき中にも礼儀ありだからって」 「それはそう思うよ。そういう面もあるだろうね。けどあんたらはさ、あいつは……」  私は、というか、私の夫である新開水留(しんかいみとめ)やこの秋月六花さんも含めた幾人かの友人たちは、丁度今から十年前、とても大切な人を失った。その人の名前は、西荻文乃(にしおぎふみの)。かつて、新開水留が心から愛した女性だ。大切な女性を失くし、その弱った心につけ入るようにして彼の懐に入ったのが、この私だ。  もちろん、そんな風に思われたくないという気持ちが、ないわけではない。事情を知る友人たちも、決してそんな目で私たち二人を見た事はないと思うし、今年で三歳になる娘が生まれた時などは、私たち二人の方が驚いてしまう程たくさんの温かい涙で祝福してくれた。応援されているのだと、感じる。  だが、実際の所は、憔悴しきった夫の側にいることで、私自身の心にも刻まれた傷を癒そうとする自己防衛反応が働いていたのだ。かつて味わった苦楽を共有しあえる人間がそばにいることの安心感と、幸福。そうした時間の中で、私としては本当にごく自然に、友情とはまた違った種類の情が生まれていった。もともとお互いが人として好意を抱いていたこともあり、前向きな進展を遂げることに違和感や嫌悪感はなかった。その事は夫も同じ様に感じていたはずだし、二人の時は、今でも当たり前のように文乃さんの話をする。そんな私たち二人のスタンスが、周囲にどういった感情を植え付けるのか些か不安ではあったけれど、涙をもって我が子の誕生を祝って貰えた時、私は新しい人生を踏み出せたのだと、ようやく思う事が出来たのだ。
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