271人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
【7】
秋月さんはアイスコーヒーをテーブルに戻し、傍らに置いていたバッグの中から携帯電話を取り出して耳に当てた。私はスプーンに乗せた白玉団子を口に含むと、何となく噛むのが可哀想になって、舌の上で転がしてみた。ほんのり上品な甘さが口の中で広がる。さすが、手島スペシャルだ。
「ああ……うん、その件ね、今日はキャンセルで。明日必ず行くからって、先方にはそう伝えて」
掛かってきた電話に秋月さんがそう答えて通話を終えると、私はテーブルに額が付くくらい頭を下げて、「すみません」と詫びた。秋月さんはそんな私をじっと見つめて、こう言う。
「テーブルの上に、手の平全体を押し当てるようにして、付けてくれる?」
「え?」
私は驚いて白玉を飲みこみ、そして言われるがまま両手をテーブルに置いて、肘を持ち上げて手の平に軽く上半身の体重を乗せた。すると秋月さんも同じように、テーブルに両手を乗せ、ふう、と小さく息を吐いた。その途端、テーブルの上のクリームパフェが踊るように一回転し、アイスコーヒーの入ったグラスの中で氷がぐるぐると舞った。
重たい木製のテーブルを通して、秋月さんから癒しの霊気が伝わって来る。何も悲しくなんかないのに、閉じた私の瞼の隙間から自然と涙が零れた。
「温かい」
私が泣きながら言うと、
「ったくー、霊障受けやすいのは相変わらずだねー」
秋月さんはそう言って、優しく微笑んだ。「このまま、話を続けようか」
私の話はこうだ。
これは私の夫である新開水留の記憶とも照合済みである為、子供の勘違いという話ではない。当時、私と私の一つ年下の夫が住んでいた美晴台という地域には、鉄筋コンクリート造の集合住宅が存在した。国道からは見えない山の裏側に建てられたその団地には、周辺の開発事業に携わる工事関係者や関連企業の従業員家族などが多く暮らし、もともとその土地に住んでいた地元住民との間には、子供には言い表すことの出来ない『溝』があった。自然、地元民と新規参入である集合住宅民との間に交流はなく、私の母が一年と経たず東京へ戻りたがった理由も、その辺りにあると聞いている。
ただ、そんな地元住民と私たち新参者が等しく頭を垂れる人間が、その集落には存在していた。その者の前でだけ、交流のない我々が軋轢や温度差を感じさせずに接していたのである。
「村長さん的なこと? 地主さんとか、お互いの関係を取りなそうとする人というか」
秋月さんの質問に、私は首を横に振って答えた。
「違うと思います。表現が難しいのですが、その人はいつもニコニコ笑って、私たちが住んでいた団地の境界線に立っていました」
「境界線、って?」
「この線からこっちが団地の敷地、この線から向こうが敷地の外。そういう見えない線の境目に」
「ニコニコ笑って?」
「はい」
「男性?」
「そうです。子供だったので年齢は分かりません。当時は若いように思っていましたが、体が細くて、幼い顔立ちの、ひょっとしたらお爺ちゃんだったのかもしれませんし」
「どういうこと? ただ立ってるだけ?」
「はい。姿勢がちょっと前のめりで、腰が曲がっていて、いつも何かをぶつぶつと、とても小さな声で独り言を言っていたように記憶しています。ゆっくりとした不規則な調子で、両手を顔の前辺りでヒラヒラと動かしていました。所謂その……当時は、ハンデキャップを持った方なのだと教わっていて」
「ああ、ああ、ああ、なるほどね。うんうん、それで?」
「だけど、それでもやっぱり不思議な光景だったんですよ。その人はいつも境界線にいて、団地側でも外側でもない方向を向いて立ってるんです。いつもニコニコ笑ってるその人の前を通り過ぎる団地住みの人間は、皆会釈して。地元の人達も、わざわざ様子を見に来て、また頭を下げて」
「え? 地元民が会いに来るの?」
「そうなんですよ。なんか、それって不思議じゃないですか? 例えばその人が本当にハンデを持った方なのだとしても、目の前を行き交う住民が挨拶するのは普通でしょう。でもわざわざ離れた場所に住む人達まで頭を下げに来るのって、なんか変ですよね? 友達みたいに親し気に話をするわけでもなかったし」
「ううーん。頭を下げに来る……か」
秋月さんは唸り声を上げて、天井を見上げた。両手は、私も彼女もテーブルに置いたままだ。
「なんか、もしかしてだけど……分かるかも、その人」
「本当ですか!?」
身を乗り出して反応するも、
「名前とか、憶えてる?」
そう尋ねられ、私は頭を振って俯いた。名前を聞いた記憶が、そもそもない。毎日のようにその人の前を通っていたにも関わらず、男性の名前を私は誰にも尋ねた事がなかったのだ。
正直に言えば、怖かった。不気味な存在だと思っていた。私は今になって当時の気持ちを振り返り、自分を恥じ、そして深く項垂れた。
最初のコメントを投稿しよう!