【8】

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「多分、その頃にはもう私は天正堂を去ってるんだと思う」  と、秋月さんは言った。  秋月さんはかつて、公安部の極秘部署である『広域超事象諜報課』に所属していた。だがそれよりもっと前、彼女はまだ十代だった頃に『天正堂』という名の拝み屋衆の門を叩いている。天正堂とはつまり、私の夫である新開や、彼の師である三神三歳(みかみさんさい)が名を連ねる呪い師たちの団体である。そこでも彼女は生来の霊能力を高く評価され、女性では唯一だという『階位』と呼ばれる称号を与えられている。六花、という彼女の名前もそれに起因している。 「私があそこにいたのはウン十年も前だけど、チョウジにいたこともあって噂だけはちょくちょく耳にしてた。『美晴台の崖団地』。……んだよね? 何かその事と、関係があるんじゃないかな?」  出る、とは心霊現象の事を意味している。だが私は曖昧な首の傾げ方で、こう答えた。 「確かに新開くんは、そう言ってました。出るって。だけど、私の中ではそういった記憶はなくて、ただただ不思議な雰囲気の場所だった。不思議な人たちだったなって、そういう印象なんです」  ううーん、とまた秋月さんは唸って、今度は天井ではなくテーブルに視線を落とした。 「聞いたことないかな。当時は確か、こう呼ばれてたんだよ。『御曲(おまが)りさん』て」  秋月さんがその呼称を口にした瞬間、私の手がテーブルから離れた。私は何もしていない。しかしテーブルの下からドンと突き上げられたようになって、私の両手はふわふわと空中を舞うように漂った。 「希璃(きり)ッ!」  秋月さんが立ち上がって叫び、私の両手を真上から押さえ付けた。ダンッ!とテーブルが激しい音を立てた時には、青ざめた美しい顔が私のすぐ目の前にあった。私は年甲斐もなく胸をどきどきさせた。秋月さんは目を細めて、私の眼球の奥を睨み付けている。明らかにその時、秋月さんは私の目の中に何者かの影を見ていた。  喧嘩だと思ったのだろう。マスターの手島さんがトレーを胸に抱き、心配そうな顔で駆けつけて来た。秋月さんは怒ったような顔で手島さんを見やり、「ごめんねマスター。ちょっと奥にいてくれる」  と言った。その声は低く、あまり優しいとは言えなかった。 「希璃」 「はい」 「夢を見ると言ったね」 「はい」 「悪い夢か?」 「分かりません」 「お曲……境界線の男が夢に出てくるんだね?」 「はい」 「怖いか?」 「はい」 「分かった。この場はこのまま、私が一方的に話をしよう。あんたは何も言わなくていい。話の通りが良いあんたが相手だから本当のことを話すよ。あんたは今、とても悪いモノに入られている。理由はまだ分からない。でも心配しなくていい、必ず何とかする。ただ、油断はしちゃいけないよ。相手は相当手強いからね?」 「……はい」  はい、しか言えなかった。それしか言えるはずがなかった。  誤解を恐れずにいえば、目の前の秋月さんからは肉の匂いがした。香水や化粧品が漂わせる女性らしい匂いではなく、彼女が生まれながらにして持つナチュラルな肉体の匂いだ。だがその匂いが、狂おしいまでに私を勇気づけるのだ。頼れる人が、ここにいる。生々しくも、不快さなど微塵にもない秋月さんの匂いに私は涙を流し、そして何度も頷いた。
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