再会

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再会

 その文が、月花楼に届けられたのは、桜が満開になり四・五日が経った頃である。  受付の楼主に文を渡す男性は、普段よりも心なしか緊張した面持ちであり、慎重に使用人によって、梅花が寝起きする自室に届けられた。  空が白み始め、人々が動き始める気配が漂う頃。  客の相手を終えた梅花は、先に床に付いている芽李花と華琳を起こさぬように、そっと襖に手をかけ引く。足音を忍ばせ部屋に入ると、すぐさま襖を閉める。  幾ら空が白みがかっているとは言え、部屋の中は薄暗い。    湯浴みをしに行くために髪を解こうか、化粧を落とそうか、因循(いんじゅん)しふと几を見やると、一通の立て文が目に入った。  梅花は、二人を踏んでしまわぬよう、几に近づき立て文を手に取る。裏に、梅花の名が書いてあるのみで、宛名は記されていない。 若様―!  文の形状から、若様からの文だと直ぐに理解し、その刹那心臓が大きく跳ねる。  早く早くと、急かす気持ちを押さえ、文を手にしたまま部屋の外に出る。  行灯に火を灯せば、二人を起こしてしまう可能性がある。故に、少しでも明るい外で文を開くことにした。  梅花は速足で階を降り、玄関へと足を向ける。幸いいつも楼主が座っている、受付の小窓に人の姿はない。    靴を履き外へ出る。風は冷たく身震いするが、息が白くなるほどではない。  梅花は妓楼の壁に凭れ掛かり、慎重に立て文を開く。  文には、返信が遅れたことへの陳謝と近日中に妓楼に向かう故、心づもりをして待っていて欲しい旨、更にその折に伝えなければならない事柄がある旨が認められていた。  梅花は、文字を目に焼き付けるように、文字を追う。文の内容に息を呑む。  恐らく、伝えなければならない事柄とは、若様の名や身分だろう。  若様が何者か知りたいが、知ることで繋がりが切れてしまうような気がする。  曖昧な感情が、渦を巻く。この感情の根源は何か。梅花自身にも分からない。  何故、若様の名を聞かずとも、連想する言葉を聞いただけで、心臓が跳ね上がるのか。この感情に、名を付けるのなら何という名か。  梅花は先ほどまで、文に落としていた視線を上にあげる。白んでいた空に、太陽が徐々に顔を出す。  あまり、自室を留守にする訳にはいかない。梅花は文を畳み、気づかれぬようにそっと建物内に入っていく。  若様から文が届いて数日後。  この数日間。妓楼では、変わった様子は見受けられなかった。若様の文が届けられてからというもの、若様に会えるのは今日か明日か明後日かと、一日千秋の思いで首を長くして待ちわびていた。  しかし、梅花の期待とは裏腹に、本人が妓楼に姿を現す気配は一向にない。  しかしこの日は違う。目を覚ましてからずっと、いつもよりも喧騒が大きく聞こえる。  他の妓女から、特別な客を招くらしいと、小耳に挟んだものの、「今日。何かあるの?」同室の芽李花と華琳に問うが、二人とも詳細は知らないらしく、頭を振る。 芽李月(めいげつ)さんに特別なお客だろうか―。  布団を畳みながら、そう思案する。  芽李月とは、月花楼で一番の人気を持つ妓女である。  美貌だけではなく、器楽や詩歌にも明るく、いずれ宮妓として教坊に入るのではないか…とまで囁かれ、客の中には官僚や王族までいるという。  故に通常、数人が一部屋で生活する妓楼の中で、現在彼女のみが個室を与えられている。  芽李月と一夜を過ごそうとすれば、一両や二両ではとても賄えない。それだけ、価値がある妓女なのだ。  夜見世(よみせ)が始まっても、梅花には指名がかからず、自室で一人若様からの文を読み返していた。  下から、客と妓女らの楽し気な声が聞こえてくる。  下からの声を聞いていると、自分だけが一人取り残されているような気がして、索漠(さくばく)とした気持ちで膝を抱える。    どれぐらいそうしていたのだろう。突然、襖の外から「ご指名でございます」と、使用人から声をかけられ顔を上げる。  使用人の声は、心なしか上ずっているように聞こえた。  気を取り直し、梅花は紅を指し、梅の簪を髪に挿すと、若様からの文を文筥に入れる。    襖を開けると、使用人の少女が緊張した面持ちで立っていた。事情を尋ねる暇もないまま、少女はくるりと背を向け歩き始める。  階を降り、廊下を進むのは普段と同じだが、普段とは違い廊下の突き当りまで進んでいく。   牡丹。  国花の名が付けられた、この部屋は他の部屋よりも広く縁側があるが、滅多なことでは使われない。    周りの客や、妓女らの視線が梅花に向く。  少女は突き当りの部屋の前で、足を止めると振り返り客や妓女らと対峙すると口を開く。 「お客様は、人払いをご所望です。ご了承ください」  その言葉に、喧騒が生まれる。妓女同士で、はたまた客同士で囁き合っている。  騒ぎを聞きつけたのか、芽李花と華琳も部屋から出、目を丸くしている。しかし、一番この状況を理解していないのは、梅花自身である。  何故、自分のような下級の妓女に人払いを望まなければならない程の客が、指名したのか見当がつかない。  この部屋に通されるのは、国の重役などの身分の高い客に限られている。 襖の向こうに、何かあるのでは……。 あるいはー。  梅花の考えを知ってか知らずか、少女は、まだ喧騒が残る人混みの中に、身を委ねていく。  梅花は、唾を呑み慎重に襖に手を掛け引く。客の顔を見るより先に、揖礼を捧げる。 「梅花」名を呼んだ声に、聞き覚えがありすぐさま顔を上げる。男性は、温和な笑みを浮かべている。 「若様……」掠れた声。まるで夢でも見ているかのような光景に、目を丸くする。  部屋で待っていたのは、他の誰でもない“若様”であった。  思いがけない再会に、どう言葉を紡いで良いのか分からず、その場に立ち尽くす。  実際は、話したいこと尋ねたいことがとめどなく溢れ、どこから話せば良いか逡巡していた。  梅花は、足を進め男性の隣に腰を下ろす。男性は梅花と視線を合わせると、満面の笑みを浮かべる。  その笑みに、心臓を羽で撫でられたかのように、面映ゆくなり視線を逸らす。 「本来なら、もう少し早く会いに来るつもりでいたのだが……。なかなか時間が取れず申し訳ない」  男性の謝罪に、梅花は大きく頭を振る。 「若様が責をお感じになる必要はございません。  ですが……」  言葉を切ると、梅花は顔を上げ視線を合わせる。 「わたくしも、貴方様にもう一度お会いしたいと思うておりました」  口にした瞬間、顔から火が出るように熱くなる。両手で、頬を押さえる梅花の姿に、男性は肩を揺らし微かに笑い声を漏らす。 「その節は、助けて頂きありがとうございました。それに、高価な簪まで……」  酒を注ぎながら、そう口にする。  男性は梅花の髪に挿してある簪に目をやる。 「いや。喜んでくれたのなら嬉しい。  使いの者に選ばせた故、似合うかどうか案じていたが……。良く似合っている。女人故、(ろう)かんなどの宝石の類が付いた簪が良いとも思うたが……」 「琅かんなどそのような高価なもの……! とんでもない……!」  梅花は目を見開き、男性の前で掌を大きく振る。  琅かんとは翡翠の最高級を意味する。通常の翡翠とは違い、翠玉(エメラルド)のような澄んだ色が特教の宝石である。  翡翠でさえ、貴族の娘しか縁がないもの。琅かんなど、いくら金子を積んだら手に入るのか、梅花には見当が付かなかった。  それから、男性は梅花が話す、妓楼での生活などを物珍しそうに耳を傾けていた。   「梅花」不意に、それまで会話を楽しんでいた男性の顔から、笑みが消える。    男性は思いつめた表情を一瞬すると、重い口を開く。 「そなたに、話さなければならないことがある。  出来れば、外で話したい。人払いをしたとは言え、誰が聞き耳を立てているか分からぬ。可能か」  梅花は頷く。 「縁側から外に出ることは可能でございます。外は庭になっております。今の時期なら、桜が見頃かと」  そう口にしつつ、縁側の障子を開ける。  外には、巨大な桜の木が花を咲かせており、灯篭の火によって夢想(むそう)的な雰囲気である。風に乗って、花びらが縁側まで運ばれている。  男性は縁側にある、靴脱ぎ石に揃えてある靴を履き外に出る。梅花もその後に続いた。 「見事だな……」男性が桜の木を見上げ呟く。  二人は暫く、桜の花に見とれていた。 「それでお話とは……」沈黙を破ったのは梅花である。  男性は二度…三度、深呼吸をすると意を決して口を開く。 「私はこれまで、そなたに己の名も身分も明かさずにいた。  だが、これからはそうはいかぬ。私は……」  ここで一旦言葉を切る。  糸を張ったような緊張が、その場を支配していく。 「我が名は白桜。この国の王子であり、王位継承者だ」  男性が己の正体を明かしたその刹那、強い風が吹き男性の長い髪と、桜の花びらが舞い上がった。  梅花は口を両手で覆い、その場に立ち尽くしていた。
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