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正体
そんなことあるだろうかー。
この方が王族などー。
梅花は立ち尽くしたまま、白桜をじっと見つめる。
口を覆っていた手を下ろすと、口を開く。
「戯言でございましょう?
確かに、初めてお会いした時から、貴族の若様だとお見受けいたしました。
ですが……。まさか、王族の方とは夢に思わず……」
王子だの王位継承者だの……。突然のことに、頭が付いて行かず混乱しそう問うのが精一杯であった。
梅花の混乱も無理もない。
本来、王族というものは一般の民にとって幻のような存在。顔を見ることすら、一生に一度あるかないか。
「これで、信じてもらえるか?」
猜疑している梅花に、白桜は深衣の袖を捲り梅花に見せる。柳鼠色の深衣の下から、禁色である桜色の糸で刺繍された、桜の花が散らされた衣が姿を現す。
更に袂から、王宮を出入りするための木製の手形を取り出す。手形には、白桜の名と国璽と玉璽が押されている。
手形に記された白桜の名、そして桜が刺繍された衣。これで、目の前の若様が王族なのは証明された。
桜色は王族のみが、身に纏うことが出来る禁色。言わば王族の証である。
「縁談を白紙にされたと小耳に挟みました」
白桜を見つめたまま静かな声で切り出す。
白桜はその一言に、軽く息を呑む。都に縁談の顛末が奇聞となり、囁かれているのは知っていたが、妓楼にも届いているとは予想だにしていなかった。
「理由をお尋ねしても?」
問いにどう答えれば良いのか。白桜は口ごもる。心臓が早鐘の如く脈を打つ。
しかし黙っていては、気持ちは永遠に己の中である。白桜は口を開く。
「そなたを好いているからだ。正室になるのは、そなたが良い」
また、呆けた表情をする。
好いているー?
一度しか会ったことがなく、文でのやり取りのみでしか知らない私をー?
聞き間違いではないだろうか……。
「お戯れを……。わたくしごときが正室など……」
苦笑いを浮かべたまま、ゆるゆると頭を振る。その刹那、腕を引かれ引き寄せられる。白桜の心臓の音が、すぐ近くで聞こえてくる。
「この早鐘が戯言だと思うか。何故、好いている女人に嘘を付かねばならぬ」
頭上から真剣な声が降ってくる。真剣な声に、思わず「承知いたしました」と答えそうになる。
しかし、梅花は身体を離すと再度頭を振る。
「お考え直しを。
お嬢様との縁談をお受けください。
わたくしは妓楼の妓女でございます。王子である貴方様と、釣り合うはずがございません」
冷ややかな態度とは裏腹に、梅花の声は震えていた。
「当に縁談は白紙。今更どうしろと」
恐らく、戯言ではないのだろう。
しかし自分は妓女である。妓女が卑しい存在として、虐げられるこの国において、正室として王室に入るなど周りが許すはずがない。
望みを口に出せば、全て思い通りになると自負している。
そんな白桜の浅はかな物言いに、梅花は苛立ちを覚え白桜を睨みつけ口を開く。
「王子とはいえご存じでしょう!?
この国で妓女がどのような存在か! わたくしたちがどのように、客を楽しませているか! 夜伽と呼ばれるものが、どのようなものか!」
一気に捲し立てる。梅花の大声が、建物内にも聞こえるらしく、妓女らが何事かと二階の障子を開けて、庭を覗き込んでいる。
この方は、何もわかっていないー。
妓楼という場が、どれ程過酷で残酷な場かー。
王子である白桜に、妓楼の過酷さと妓女の惨めさを知って貰おうとするなど、無理な話なのだ。
まさか激高されるとは思わなかったのだろう。白桜が口を開け、呆けた表情をしている。
白桜に、口を開く隙も与えず言葉を紡ぐ。
「わたくしは当に、水揚げの儀式も済んでおります。
それ故、身体に傷があるのも同然でございましょう」
身体に傷がある女人は、王宮に入ることは不可能。これは、王宮に入る女人は純粋な乙女でなければならないという、風潮が関係している。
自分が持つ感情が、怒りかそれとも白桜の思いに応えられない自分への、憐れみか様々な感情が渦を巻き、視界をぼやけさせる。
梅花は髪に挿している簪を、力任せに引き抜く。その拍子に、彼女の長い髪が背中まで落ちる。
簪を握り締め、白桜のもとへ差し出す。
「これはお返しいたします。白桜様のご所望に沿えぬわたくしが、持っているべきではございません。
もう二度と、このようなことはなさいませんよう」
声が震え裏返る。
白桜に簪を押し付けると、身を翻しその場を立ち去ろうとする。
「梅花!」白桜は梅花の手首を掴む。己の方へ振り向かせる。
梅花は白桜の手を振りほどき、戦慄く口を開く。
息を吸う度に、ひゅうという音が漏れる。
「一国の王子が、卑しい存在である妓女に、思いを寄せるなど許されることではございません。
金輪際、わたくしに会いに来ることはおやめください」
今度こそ、身を翻し梅花はその場を立ち去る。
庭から部屋に上がり、部屋の襖を閉める音が大きく響いた。
梅花は部屋を出ると、階を駆け上がり自室に入ると、襖をぴしゃりと閉める。
襖に凭れ膝を抱え、顔を埋める。胸に、焼かれたようにひりひりとした、痛みが走る。
息を吸おうと口を開けば、嗚咽が漏れた。
若様が王子でなければ、ここまで苦衷することはなかっただろうかー。
あのまま、正妻の申し出を受けることができたのならー。
自分の身分が惨めで、どうにもならない感情が胸を突き、更に嗚咽が大きくなる。
襖が開き、頭上から芽李花の冷やかな声が届いた。
「忠告したはず。
ここには、誠の色恋など存在しない。梅花も、こうなることは予想していたんじゃないの」
涙に濡れた顔で振り返る。芽李花の軽蔑するような、視線と物言いに顔が歪み嗚咽がこみ上げる。
梅花が部屋を後にしてから、白桜は意気消沈の思いで妓楼の門の壁に凭れていた。
手には、突き返された簪が握り締められていた。
こんなはずではなかったのに―。
奥歯を噛み締める。ずるずるとその場に座り込み、膝を抱える。
妓楼の門で警備をしている男性は、白桜にちらりと目をやった後は、微動だにしない。
白桜のように、妓女に想いを告げ憔然としている者など、珍しくないのだろう。
「若様。お身体が冷えてしまいますよ」
白桜が出てくるのを待っていた、桃苑が声を掛ける。
白桜は荒い息を吐き、口を開いた。
「縁談を断った後に、正体を明かせば梅花を傷付けることなど無いと自負していたが、間違いだったようだ。
結局私は、好いている女人を護ることは出来ぬらしい。どのような手を使っても、梅花を傷付けてしまう。
分かっている、妓女がこの国でどのような存在か。妓女を娶ることで、王室がどれ程混乱するか」
だが、梅花に対する感情は、嘘でも戯言でもなく本心―。
競り上がる嗚咽を堪える。
母上に従い、好いてもいない白蓮と夫婦となり、梅花を側室に据えればこんな思いをせずとも済んだだろうか―。
側室なら己が護ることができる―。
馬鹿げた考えを思い浮かべると、胸に鋭い痛みが走る。
隣にいる筈の桃苑の顔も、ぼやけ鮮明には見えない。
膝に顔を埋める。
憔悴しきった主に、どう言葉を掛ければ良いのか分からず、桃苑はだだ耳を傾けるしか術がない。
いつの間にか、空は分厚い雲で覆われ雨が振りだしていた。
雨脚はそこまで強くはないが、それでも門瓦を叩く音がする。
桃苑はなにも言わず、手にしていた番傘を開き白桜に差し出す。
番傘を差し出されて初めて、雨が降っていることに気づいたらしく、白桜は天を仰ぐ。
「桜雨でしょうか」
桃苑が遠慮がちに口にする。
白桜は、先ほど見た見事な桜の木を思い出し、口を開いた。
「花散らしの雨ではないと良いのだがな……」
言葉に隠された意味を理解し、桃苑が微かに頷く。
白桜はゆっくりと立ち上がり足を進める。
そんな白桜の姿を、遠くから眺めていた男が一人。
男は眉を潜める。
何故、あの方が妓楼に―?
男と白桜はすれ違うが、白桜と桃苑は気づいていない。
男はそのまま、妓楼の門を潜った。
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