黴雨

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黴雨

 文を認め終えた梅花は、文を手にそっと襖を開け部屋の外に出る。  周りに人影がいないことを確認し、薄暗い廊下を歩き階を上がる。  梅花の力だけでは、文を白桜の元に届けることは不可能である。  そこで、王宮と幾らか繋がりがある、芽李月ならば何か、手を貸してくれるのではないかと期待している。  上の階でも、しんと静まり返り人影はない。  自分の気持ちに、少し答えが出た気がしたことで、興奮と期待で足音が大きくなる。  梅花は真っ直ぐ廊下を進み、芽李月が居る部屋の前で立ち止まる。  耳を澄ましても、部屋の中からは男性の声は聞こえてこない。 「芽李月さん梅花です」襖越しに声を掛ける。  暫しの間を置いて、襖が開き芽李月が顔を出す。  芽李月は突然梅花が姿を見せたことに、なにも言及せず部屋の中に誘う。  梅花は芽李月に文を見せ、どうにかして王宮に届ける術がないかと問う。 「どうしても、この文を白桜様に読んで頂きたいのです。  芽李月さんは、王宮に関しても明るいのでは…と。それ故どうか、ご尽力を頂けますでしょうか」 「今、貴女の名前で文を出せば、王宮側が黙っていないでしょう。それに……」  梅花の懇願に芽李月は口ごもる。  軽く息を吐くと、躊躇いがちに口を開く。 「本来なら、このようなことを貴女に伝えるべきではないのでしょうが、耳に入れておいた方が良いかと。  白桜様の腹違いの兄である桜薫様が、貴女と白桜様の関係を探っていらっしゃいます。  桜薫様の後ろには、必ず王妃様が付いていらっしゃいます。恐らく、関係を探るようにと命を下していらっしゃるのも、王妃様でしょう」  思ってもいない芽李月の言葉に、眼を丸くする。  白桜に腹違いの兄がいることも、その兄が王妃と手を組んでいることも、梅花にとっては初耳である。 「王妃である春玲様は、王室の秩序と繁栄に重きを置いていらっしゃいます。  それ故、白桜様の想い人がどのような家柄なのか、気になさるのは当然のこと。  もし、貴女が白桜様の想い人だとおふたりが知れば必ず、二人の仲を引き裂こうとするでしょう。どんな手を使っても」  淡々とした芽李月の声。  芽李月の言葉に、春玲の底のない執着心が垣間見える。  縁談が白紙になった理由は、白桜の心変わり。しかしまだ、梅花と白桜の関係は、王宮には露見されていないはずである。それでも、春玲は白桜の想い人を何としても見つけ出そうと躍起になっている。  梅花を王室の秩序と繁栄を乱す者として、決めつけ排除しようとしている。 どこから漏れたのだろう―。  春玲の執着心と企てている事柄に、身体の芯が冷え梅花は肩を抱き、ぶるりと身震いをする。  恐怖に苛まれている梅花を尻目に、芽李月は几の引き出しから紙を取り出し、墨を擦り筆に含ませると芽李月自身の名を認める。  そして、梅花から文を受け取ると紙縒りを解き、礼紙を外し先程自分の名前を認めた礼紙を巻き、再び紙縒りを結ぶ。   「ひとまず、私の名で文を出せば不審に思われることはないでしょう。  奉公人に、王宮まで届けるよう、明日の朝一で伝えておきます」  芽李月の粋な計らいに、感謝の意を込め揖礼する。  そのまま、踵を返そうとするとが芽李月は、梅花の名を呼びその場にとどまらせる。 「今年は、黴雨に入るのが早まるかもしれません。  次の新月には、初夏を知らせる花火が打ち上がるとか」  黴雨の入りが早まるということは、即ち梅花の謹慎処分が予定より早く終了することを意味する。と同時に、それまでに自分の気持ちに答えを出さなければならないと、実感する。  天香国では、春夏秋冬の季節の移り変わりを民に知らせる為に、一年に四回新月の夜に花火が打ち上る。  この日ばかりは、普段は酉の刻(午後六時頃)で店仕舞いをする店も、花火が上がるまで店を開ける。妓楼の営業も休みになり、皆思い思いの場所で花火を鑑賞する。 「なんとなく、自分の気持ちに答えが出た気がします。  私は、白桜様のことを……」 「黴雨の入りまで、まだ時はあるでしょう。  焦らずとも良いと思います。  花火が上がる日は、都で観賞すると良いかと」  梅花の心中を察してか、芽李月は言葉を遮り優しく微笑む。  梅花は頷き微かに微笑むと、今度こそ踵を返し部屋を後にする。    まだ夜が明けきっていない王宮のどこからか、狼煙(のろし)の煙が見える。煙は高く上がり、薄暗い空に霞のような白煙が映える。  今晩、初夏を知らせる花火が上がる。故に、この狼煙は予定通り花火が上がることを知らせるものである。  白桜は寝台の上で、上半身を起こし行灯の灯頼りに十日程前に届いた、梅花からの文に目を通していた。  文には梅花の名ではなく、別の女人の名が認められている。見て直ぐにこれは、春玲と彼女側に付いている官僚の眼を、掻い潜るための誤魔化しだと合点がいった。  文には数か月前の晩、自分の事情のみで騒ぎを起こしたことへの陳謝が認められている。 謝らねばならぬのは私の方だ―。  白桜は膝を抱え、顔を伏せる。  白桜もまた、あの日の晩の出来事には責を感じている。  梅花の事情を何も考慮せず、ただ己の感情のみで行動をしてしまったことを。謝罪をしなければならないと思いつつ、今日まで実行に移せずにいる。  白桜は、謝罪の文を認めようと寝台から動こうとする。 直接謝ったほうが良いのではないか―。 そう思いなおし、策を講じることにした。 「今なんと……」桃苑はそう言ったきり、後に言葉が続かず膳を両手に持ち、あんぐりと口を開ける。絶句という言葉が、よく似合う表情。  夜が明け、朝餉を終えた白桜はお膳を下げに来た桃苑に、どうにかして今日王宮を抜け出せないかと打診していた。 「今日がどのような日かご存じでございましょう?」  恐る恐る問うと、白桜は大きく頷く。 「ならば何故……!」桃苑は一歩詰め寄る。  甲高い声が耳に届く。  白桜は動じず、ゆっくりと口を開いた。 「梅花から文が届いた。  あの時に騒ぎを起こしたことを陳謝した文だ。謝らねばならぬのは、私の方だ。どうしても、直接会って謝りたい」  白桜の言葉に、桃苑は盛大にため息を吐く。そして、大きく頭を振る。 「だとしても今日はいけません。  毎年花火が上がる日は、王族の皆さまお揃いで鑑賞なさるのが習わしでございます。白桜様が、いらっしゃらないことが公になれば、王妃様からの風当たりは一層厳しくなるかと。しかも抜け出す理由が、想い人と逢引きのためとなれば余計に」  白桜の行動には、対外口を挟まない桃苑が、ここまではっきりと苦言を呈するのは珍しい。それほど、主の立場や身を案じているのだ。  苦言を呈した桃苑は、お膳を手に宮を後にする。  季節の移り変わりを知らせる花火は、民にただ季節を知らせるためだけではなく、王宮からの国が弥栄で着るもの食べるものに困ることがないように、という願いも込められている。  王族は国の繁栄を願い、皆揃って花火を鑑賞する。  お膳を尚食に返却し、戻って来た桃苑は再度口を開いた。 「今日お忍びでお出かけになるのは、誠にあの妓女にお会いするためでございますか。桜薫様とお顔を合わせるのが、お嫌だからではありませんか」  桃苑の鋭い指摘に、口ごもる。  桃苑も、白桜と桜薫の折り合いの悪さを承知している。お互いが互いのことを、良く思っていないことも。    白桜も、葉桜が目立つ時期に、桜薫が都に戻って来たことを、小耳に挟んでいた。春玲が、桜薫を目にかけていることも。  本音を言えば、桜薫とは深く関わりたくない。それが、同じ王族で腹違いの兄だとしても、所詮は他人なのだ。   「兄上の件とは関係ない。  文には、騒ぎを起こしたことで、私に嫌われたのではないかと認められていた。そのようなことなど、あるはずないのに。  梅花には、不安や畏怖など感じて欲しくない。  このようなとき、己の立場が足枷のように感じる。王族という立場など、なければ良いとさえ。幾らもがいても、己の自由に行動することは許されない」  白桜は、視線を下に落とす。    白桜の本音に、どう言葉をかけて良いのか分からず、今度は桃苑が口ごもる。    王族であるが故に感じる、不自由さと梅花への気持ちが、白桜を駆り立て梅花へと向かわせる。 「独り言だ。聞き流せ」桃苑の心情を察し、短く言う。 「鑑賞の準備が始まる、午後からならばどさくさに紛れて、王宮を抜け出すことも可能やもしれません」  主の心情を慮りそういうと、桃苑は悪戯を企む幼子の如く微笑む。
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