上訴

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上訴

 本格的に黴雨に入り、叩きつけるような雨音と雷鳴が、宮の中にいても聞こえてくる。激しい雨音に混じり、臣下らの上訴が聞こえてくる。 「王様! 白桜様の正妻に、妓女をお認めになることはおやめ下さい!」 「おやめ下さい」 「再度、お嬢様との縁談をご下命ください!」 「ご下命下さい」  雨で身体が濡れるのももろともせず、華葉宮の前で臣下らが座り込み、声を揃える。 「白桜様。お気になさいませんよう。  王様も、白桜様の好きにと仰せになった以上、官僚らの上訴に耳は貸さぬかと」  桃苑が、行灯に火を入れつつ言う。雨が降っているからか昼間だというのに、宮の中は薄暗い。 「しかしまさか、母上が朝廷に乗り込むとは思わなかった……」  白桜はそう呟くと桜薫から、忠告を受けた翌日の記憶を手繰り寄せる。  正殿である金烏殿では、丞相や右丞・左丞をはじめ三省の長官と侍郎(じろう)、六部の尚書(しょうしょ)と侍郎、九寺の長官、五監の長官、御史台太夫(ぎょしだいたゆう)と中丞、総勢四十名の臣下らと白桜が集まっていた。  桜月は正殿の玉座に腰を下ろし、桜色の(しゃく)を弄ぶ。  臣下らは二列に分かれ、左に列を成す者は桜月と白桜を支持する、海紅派を意味する群青色の深衣を身に纏い、右に列を成す者は春玲と桜薫を支持する、無月派を意味する相済茶色の深衣を身に纏っている。  話も煮詰まり、そろそろ終了の兆しが見えてきた時にそれは起きた。  突如、正殿の扉が開き、女性の影が映る。皆の視線が、一斉に扉に集中する。  女性は迷うことなく、正殿の中へ足を踏み入れる。襦裙の帯に付けている佩玉(はいぎょく)が、じゃらじゃらと耳障りな音を立てる。 「王妃……」 「母上……」  桜月と白桜。ふたりの声が重なった。  春玲は、微かに口角を上げ声を張る。 「王様と皆に、お知らせしたき儀がございます。王子の縁談の一件で」  思ってもいない事柄に、臣下らのざわめきに包まれる。 何をするつもりだ―?  ざわめきの中、桜月は目を見張り、思わず玉座から立ち上がり、桜月の隣で立っていた白桜は眉を潜める。  狼狽ぶりが、滑稽に映ったのか春玲は嘲笑う。 「なにも、今でなくとも良かろうに……。  第一、王妃が正殿に乗り込み、政に口をだすなど、余は聞いたことがない」  桜月はそう(たしな)めるが、春玲は頭を振った。同時に髪に挿している、歩揺がしゃらしゃらと揺れ音を立てた。 「いいえ。今でなければなりません。それに、これは国にとって必要なことでございます。  故に、臣下らの耳にも入れておかねば……」  言葉を切ると数歩、足を進める。 「王子の縁談が破談になったことは、王様をはじめこの場にいる皆がご存じでしょう。  ですが、破談になった真の理由までは、ご存じではないはず……」  随分、まどろっこしい物言いである。白桜は、ごくりと唾を呑み込む。この後、何を言うつもりなのか……。  どうなっても構わないと、桜薫には言ったが実際このような場に身を置かれると、肝が冷え冷や汗が出る。 「王子はあろうことか、妓女に想いを寄せていらっしゃるご様子。  自分が卑しい身分だと分かっていながら、王子に言い寄るなど汚らわしい」  春玲は吐き捨てると、白桜を睨み付ける。その視線の鋭さは、思わず視線を彷徨わせるほどである。 「王様。これは、由々しき事態でございましょう。  妓女を正妻になさるとは……。  王妃様の物言いは誠でございますか。  誠に、白桜様は妓女を正妻として、入内(じゅだい)させるおもりで?」 「そのようなことをすれば、王室の威厳はどうなりましょう」 「白桜様。お考え直しを。王様。此度の件お認めになってはなりません」  白桜の想い人が、妓女であると知った臣下らは、政派に関係なく次々と苦言を呈する。  数人の臣下らの声に続き、「お考え直し下さいませ。王様」と四十名の声が揃う。  官僚らの反応に、春玲は己の思惑通りにことが進んでいることを、安堵し喜悦(きえつ)するかのように笑みを浮かべている。    恐らく最初から、春玲の狙いはこれだったのだ。  正殿で臣下らの前で、白桜の想い人を明かすことで、桜月と白桜は反感を買う。上手くいけば、ふたりの仲を引き裂くことができるかもしれない……。 母上は、わたくしと王様が心変わりすることを渇望して―。  春玲の、母親としてはあまりにも、異質な行動に白桜は、畏怖を感じ身の毛がよだつ思いである。    桜月が口を開く。 「王妃。余は、随分前から王子の気持ちに気付いていた。  王子が、妓女に恋心を抱いていることを」  桜月の静かな声。 「ならば何故……!」  春玲の声が跳ね上がる。 「王子の気持ちに、一寸の狂いもないからだ。  王子は心底、妓女を慕い入内を所望している。  王室の繁栄も、国が弥栄なることも王位継承者として、重要なことであることに間違いはない。だが、たった一人の好いた女人の望みを叶えてやれぬ王子が、何千何万の民の望みを叶えてやれるとは、余は思わぬ」 「父上……」桜月の秘めた思いに触れ、白桜は畏怖と緊張が少し緩んでいくような、心地であった。  息子の呟きに、桜月は微笑を浮かべ頷いた。    春玲としては、納得など微塵もしていないのだろう。鋭い視線のまま、桜月と白桜を睨み付けている。 「母上。ひとつだけ、訂正させて頂きたく存じます。  妓女が、わたくしに言い寄ってきた訳ではございません。逆でございます」  「なにを言うのです? 逆とは?」  春玲は眉を顰める。 「わたくしの方が先に、妓女に想いを寄せたのでございます」  白桜の言葉に再度、臣下らのざわめきが大きくなる。 「彼女は、わたくしを王子としてではなく、一人の青年として貴族の若様として、見てくれています。わたくしが、王子だと知った今も変わらずに。  梅花は王族という枠を外し、接してくれます。民が躊躇する一線を、梅花はいとも簡単に超えてしまう。  わたくしは、梅花のそのような人柄に惹かれております。  母上もご存じの通り、彼女は妓楼の妓女でございます。ですが、わたくし彼女に国母になって貰いたいと思っております。貴族ではなく、卑しい身分の彼女ならば、民の生活や苦しみを理解し、民に寄り添う国母になるのでなはいか……。わたくしはそう、期待をしております」  白桜の目つきが優しくなり、自然と笑みが浮かぶ。白桜の堂々とした発言に、臣下らの間から「ほう……」と声が漏れた。 「貴方の恋物語など、聞きたくはありません。万が一、貴方がそう思っていたとしても、内廷は王妃であるわたくしの管轄。わたくしの許可なく、翠雨宮の主を決めることは許されることではございません。  妓女に恋心を抱くなど、罪を犯したも同然でございます」 「罪は先代の王様が行った、政そのものではありませんか」  白桜は玉座の階を降り、春玲と対峙する。 「白桜様。貴方様は、王子でありながら国の政を、侮辱なさるおつもりですか!」  臣下のひとりが声を上げる。その声が、伝播し周りの官僚らも、次々と抗議の声を上げた。 「ご自分のことを棚に上げて、話をすり替えるおつもりですか」  春玲の抗議に、白桜は春玲と臣下らを鋭く睨み付ける。 「しかし、そうではありませんか!  先代の王様が、己の身勝手な嫌悪感のみで、妓楼を閉鎖しなんの罪もない妓女を捕え拷問などしなければ、妓女が卑しい存在という風潮も残らなかったでしょう。幾ら、妓女が奴婢と同じ賤民(せんみん)だとしても。  今この世は、妓女にとって生きにくい。商売道具である、簪一本気軽に買えぬほどに」  白桜は、梅花と初めて会った日に思いを馳せながら、切々と訴える。 「母上。  わたくしの気持ちが罪だと仰せならば、親子の縁を切って頂いてもよろしゅうございます。罪を犯した息子など、王室には必要ではないでしょう。  己の身分が、梅花を娶ることに足枷となるならば、今のわたくしは喜んで王族の身分を(なげう)つ所存でございます」 「白桜!」桜月の声と共に、手にしていた笏が滑り落ち乾いた音を立てた。    万が一、白桜が春玲との親子の縁を切り、彼が王宮から出て行った場合。当然、王位継承権は白桜から消滅する。だとすれば、王位は誰に渡るのか……。  桜月が思うに、桜薫の冷淡で色事に激しい性格ゆえに、王の器ではないと思案している。 恐らく桜薫は、聖君ではなく暴君となるであろう―。  そう思案すると、桜月に悪寒が走り身震いする。  重々しい空気の中、春玲は口を開く。 「貴方が王族ではなければ、とっくにそうしていたでしょう。  罪を犯した貴方よりも、桜薫の方が君主に向いているやも知れません」  静かで底冷えするような声で、そう告げるとそのまま踵を返し正殿を後にする。   母上の執着心は底知れぬものがある―。  二日前に起きた、正殿での一件を思い出しながら、白桜がそう思案する。  外からの、激しい雨音と雷鳴はまだ続いている。その音に混じって、官僚らの上訴の声も変わらず混じっている。 「王妃様に、彼女のことが露見された以上、今まで以上に慎重に動かなければなりません」  桃苑の忠告に、大きく頷く。 「今はまだ、梅花の顔までは露見されていない。しかし、母上には兄上が付いている。  兄上に、梅花の顔まで露見されれば……」  最悪の事態が、頭の中にかすめ身震いする。  白桜の憂慮を表すかのように、一際大きな雷鳴がとどろき、白夜の如く一瞬宮を鋭く照らした。
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