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疑惑
晩霞と夕闇が迫る空を背に、梅花からの文を手に桃苑は王宮の城門をくぐる。
外廷を通り過ぎ、内廷に足を踏み入れると、前方から大勢の女官と武官を引き連れた、春玲がまっすぐ歩いてくる。
桃苑は春玲の姿を認めると、すぐさま跪き頭を垂れる。
春玲は桃苑の前で立ち止まり、口を開いた。
「桃苑。
白桜を連れずに、都に出向いたとか。白桜の命ですか? 自分の代わりに、想い人に会いにいけと?」
春玲の的を射た物言いに、冷や汗で背筋がひんやりと冷たくなる。
顔を上げ、春玲の表情を見たいという欲求に駆られるが、ぐっと堪える。
「王妃様。
わたくしの行動に関しましては、ご想像にお任せいたします。寛大な王妃様ならば、この意味お分かりになるかと存じます」
有耶無耶な物言いに、春玲は柳眉を顰める。
「それは、認めたも当然では?」物言いは、穏やかがだが冷たい声音に、彼女が決して穏やかな感情ではないことを予想する。
「王妃様。官奴の身であるわたくしの問いに、お答えいただけますでしょうか」
問いに問いを重ねる。
「聞くだけ聞きましょう」春玲の言葉に、桃苑は一拍置き口を開く。
「王妃様は、白桜様の想い人がご入内なさった場合、白桜様ではなく桜薫様を正式なお世継ぎとして、推挙なさるおもつもりではございませんか」
「このまま、白桜が考えを改めない場合は、そのようなこともあるやも知れません」
春玲は驚くことなく、冷静に言う。桃苑は、春玲の冷静な態度と声音に、微かに唇を噛む。
桃苑は白桜に仕えてから今日まで約三年。白桜の人柄や、どれだけ真摯に国や民に目を向けているか、側で見聞きしてきた。
白桜の信条である、“民は皆平等である”という言葉が、その場しのぎではなく民の生活に目を向けたものであると。
故に、春玲の白桜の信条と真摯な人柄を、侮辱するかのような物言いに、憤りを覚える。
「桜薫様をお世継ぎに推挙なされば、王妃様は摂政として国政をお取りになりましょう。
王妃様もご存じの通り、桜薫様は政に対しては不馴れな部分がおありでしょうから」
「何が言いたいのです?」
声が尖り低くなる。
「王妃様はそれをご所望ではございませんか。
摂政となれば、ご自分の思い通りに国政を操ることができましょう。
ですが、お世継ぎは王妃様の直系である、白桜様であることをお忘れなきよう」
「白桜は……!」桃苑の物言いが癪に触ったらしい。春玲が声を荒げ、跪いている桃苑に手を伸ばす。
春玲の手が桃苑の肩に、触れるかどうかとなったその刹那。
「王妃。
桃苑の物言いは誠か?」
横から、低い桜月の声が聞こえた。
その声に、春玲は目を瞠りぎこちない動きで、振り返り揖礼を捧げる。春玲が引き連れている、女官や武官もそれに倣う。
桜月は側仕えの小太りな内官のみを連れ、怪訝そうな顔をして立っていた。
「桃苑。面を上げよ」桜月の命に、短く返事をし立ち上がる。
春玲から視線を逸らし、桜月を真っ直ぐ見つめる。
「王様。
先程の話は……」
口を開き弁解を述べる桃苑に、桜月は頭を振る。
「余は王妃に尋ねている。答えよ」
桜月の声音が、怒気を含んだものに変化する。
春玲は口をつぐんだままである。
「此処では話せぬか」
沈黙を貫いている春玲に、痺れを切らしたのかため息を吐く。
「埒が空かぬ……。
王妃。続きは、余の宮で話すとしよう。
桃苑、白桜が帰りを首を長くして待っているであろう。下がって良い」
桜月の言葉に従い、桃苑は揖礼をしその場を立ち去り、白桜の元へと急ぐ。
桜月はくるりと踵を返すと、春玲に「付いてこい」とでも言わんばかりに、歩みを進める。
春玲は、引き連れていた女官と武官に、月旭宮に戻るようにと言い、桜月の後を追った。
華葉宮まで足を進めると、内官が宮の扉を開ける。
宮の石段の上には、篭松明が灯され、時折爆ぜる音がし火の粉が舞う。松明の灯が、桜月の唐紅の衣をより一層赤く見せる。
宮の外で待機していた女官と武官が、突然の王妃のおとないに目を瞠る。
二重に閉じられた扉が開き、広い部屋が現れる。部屋には、幾つもの行灯が灯され、部屋にあるものが判別できるほどの明るさを保っている。
部屋の手前に、客と話をするための広い机と椅子が三脚、そして奥には桜月が政務を執り行う、文机と椅子が備え付けられている。文机の上には、政への上訴が書かれた、巻物が乗っている。
内官は扉を閉め、扉の外で待機する。
思えば、こうして桜月と二人きりになるのは、いつ以来であろう。もしかしたら、白桜を身ごもる前に閨を共にした以来ではないだろうか。
ぼんやりと、そんなことを思案する。
桜月は春玲を、手前の椅子に座らせ自分も向かい合わせに腰を下ろす。
「王妃は、白桜ではなく桜薫が、この国の世継ぎに相応しいとそう思うか」
何の前置きもなく、単刀直入に問う。
「王様。良くお考えください。
国の決まりに反した王子が、君主など民が支持するでしょうか」
諭すように、意見を述べていく。まるで、自分に否は何もないと訴えかけるように。
「桜薫のあの人柄で君主など務まると思うか。幾ら、王妃が摂政として垂簾聴政を取るとしても。桜薫が君主になれば、暴君になることは目に見えている。
余は白桜ならば、この国を任せても良いと思うている。あやつは、国を変えようとしている。良民も賤民も生きやすい国に。
御代というのは、時代と共に変化するものだ」
桜月の言い分に、春玲は黙りこくる。反論する言葉を、探しているらしい。
若干、間が開いて春玲が口を開く。
「人柄が良く国のことを思っている者が、聖君になるとは限りません。それに、その逆も有り得るかと存じます。
桜薫は確かに、冷淡で色事も激しい人柄。傍から見れば、君主には向かぬでしょう。ですが、時に君主は冷淡でなくてはならないこともございましょう。
国難の時こそ、君主の力が試されるものではございませんか。白桜のように、情に流されているようでは冷静に国政を取れるかどうか……」
鼻で嗤いゆるゆると頭を振る。
「情に流されているだけではあるまい。
白桜は想い人の境遇を知り、己は歴史の傍観者ではなく当事者にならねばならぬ…そう本心から行動に移そうとしている。
王妃。そなたが、白桜の想い人を入内させることに、反対しているのは王室の繁栄云々というより、白桜が王位を継承すれば己の思い通りに、実権を握ることが難しいからではないか」
桜月のこの言葉が逆鱗に触れたのか、春玲は目を吊り上がらせ勢い良く立ち上がる。その拍子に、椅子が倒れ派手な音を立てる。
「王様だとしても、言っていいことと悪いことがございましょう。わたくしが、政の実権を狙っている?!」
桜月を軽蔑し朝笑う。
「確かにわたくしは、白桜より桜薫を君主に推挙しては…と思っております。ですがそれは、自分の為ではなく、あくまで国の母としてこの国の行く末を案じているからでございます。決して、己の欲望の為ではございません」
そう言い切ると、春玲は桜月を一睨みする。そのまま踵を返し宮を後にする。
扉の向こうから、内官の「宮までお送りいたします」という声がする。
内官が行灯を手に、宮まで歩いている間。春玲は、一歩一歩足を踏みしめながら歩く。
歩きながら、奥歯を噛み締める。
王様は何も分かっておられない―。
白桜が君主に据えることが、どのようなことか―。
妓女を娶った王子が君主など、民が支持するはずがない―。
やはりどこかで、王様と妓女に制裁を加えねば―。
「王様。王妃様をお送りいたしました」
入り口の扉が開き、内官がそう告げる。
「ご苦労であった」桜月の言葉に、揖礼を捧げる。
「王様」内官が徐に声を掛ける。
「内官であるわたくしが、王位継承に口を挟むべきではないのでしょう。ですが、わたくしは白桜様に王位を継承して頂きたいと思うております。
桜薫様では、あまりにも危うい」
恐らく先程の、春玲との会話が聞き漏れていたのだろう。
内官の意見に、桜月は大きく頷き賛同を示す。
「そろそろ余も動かねばならぬな……。
万が一、王位が桜薫に渡っても、この国が安泰であるように……」
静かなしかし、決意がこもった声。
「では誠に、左丞のお嬢様に縁談を……?」
内官の問いに頷く。
「通常ならば、ここまでせずとも良いのだろうが……。白紙になった責は、こちらにある。それに、白桜の側室として王宮に入るよりも、全く無縁の者のところに嫁いだ方が良いだろう。
それに、吏部の官吏ともなれば、悪い条件ではあるまい。次期尚書候補ならばなおさら」
吏部というのは、官吏の人事権を握る部署である。
桜月は万が一、桜薫に王位が渡ったとしても、吏部尚書に己と白桜を支持する海紅派の者を据えれば、王妃に実権を握らせるような人事にはせぬだろうと思案していた。
桜月の意思を汲み、内官は頬を緩めた。
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