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焦燥
黴雨の長雨が去り、肌を刺すような日差しが照りつける。
白蓮の邸も使用人らが、昼間に打ち水などをし涼を求めるが、それでも容赦のない日照りが続く。
風を通すために、障子を開け放っているが、時折湿気を含んだ生ぬるい風が、吹くのみでとでも涼しいとは言えない。
春玲と桜薫の尽力によって、一時は白蓮が立ち直ったかのように梅月には見受けられたが、あの初夏を知らせる花火の日からまた、気落ちすることが多くなっていることが気がかりであった。
梅月が気にかけていることはそれだけではない。
黴雨に入ってから幾度も、王宮や桜薫と文をやり取りしているようである。
梅月としては、柊明の耳に入れたほうか良いことは、承知している。しかし、白蓮から柊明には話さないで欲しいと、口止めをされているため見守るだけで何も出来ないでいる。
梅月の脳裏を掠めるのは、以前王宮に参内する道中で遭遇した桜薫の存在である。
正直、桜薫のことは猜疑をかけている。
白桜の正妻になれるように尽力するという言葉も、世間知らずな白蓮を悪手に引きずり込むための誘い文句に思えてならない。第一、“王宮のことを憎んでいる”と、放言を放つ桜薫に白蓮をこれ以上近づけてはならないと思案している。
梅月の杞憂を知ってか知らずか、白蓮は見るも涼しげな木綿の甕覗色の衣に月白色の裙を合わせる。裙には薄荷色の糸で流水文様が、金の糸で菊文様が八つ刺繍されている。
着替え終わると、髪を結い金でできた歩揺を挿す。歩揺の先には、玻璃の飾りが揺れる。最後に、翡翠を加工した円形の壁を使用した、佩玉を帯から垂らす。
身支度を終えると、白蓮は障子を開ける。開けた瞬間、白蓮は目を瞠る。障子の向こうには、梅月が険しい表情のまま立っていた。
「お嬢様。どちらへ?」短く梅月が問うが、白蓮は口を閉ざしたままである。
「わたくしもお供させて頂きます」
沈黙を貫く白蓮に、梅月は表情ひとつ変えず言う。
「ひとりで平気」白蓮は冷ややかに言うと、梅月の隣を通り過ぎようとする。しかし、梅月は白蓮の衣の袖を素早く掴む。
「まだなにか?」白蓮は柳眉を潜め問う。
「行き先は王宮ですか? それとも、桜薫様の所へ?」
「それが、あなたになんの関係があるというの」
苛立ち声が尖る。だが梅月も、主の苛立ち如きで怯むような侍女ではない。
「王妃様ならば兎も角、桜薫様のお人柄はご存じでしょう。
人目も憚らず、“王宮や王様のことを憎んでいる”と平気で、言い放つ者を信じる者がおりましょうか。
幾ら白桜様の正室にとお嬢様がご所望でも、桜薫様に縋るのは感心いたしません。わたくしはお嬢様のことを、案じております。桜薫様と関わることで、何か悪意あることに手引きされるのではないか…と。
お嬢様は、いったい何を焦っていらっしゃるのですか」
梅月に“自分が焦っている”と、指摘され白蓮の瞳が微かに動く。
梅月の指摘は的を射ている。
白桜の想い人が、梅花という名の妓女だと伝える旨の文が届いて以降、何の進展もないまま、時だけか過ぎていく。
桜薫様は最初から、私を白桜様の正妻に据えるための尽力など、するつもりはないのではー。
焦燥が桜薫に対する、猜疑に加速を付ける。
白蓮は何も言わず梅月の手を振り払い、足早に通りすぎていく。
「お嬢様!」背に向かって、梅月の声が追った。
外はまさしく炎暑というべき暑さであり、少し歩いただけでも汗が滴り、陽炎が立つ。時々、打ち水をする光景に涼を感じる。
白蓮は純白の団扇で、顔を隠しながら都の大通りを進む。
梅月の指摘通り、桜薫と待ち合わせをしている。と言っても、場所や時間を詳細に決めているわけではなく、都の大通りで白蓮がひとりでいる所を見かけたら、桜薫が声を掛けるという曖昧な約束である。
白蓮は布巾で汗を拭いつつ、何気なく横を見る。
そこには、虫籠に入れられた蝉がみぃーんみぃーんと、鳴き声を上げていた。
私も、この蝉と同じように、白桜様のことを好いていると、口に出せれば良いのに―。
意中の同種に向けて、鳴いている蝉と自分の境遇を重ね合わせる。
そのまま虫籠の中にいる、蝉をじっと見つめていると背後から、軽く肩を叩かれた。振り返ると、桜薫が褻衣である漆黒の深衣を身に纏い、険しい表情をし立っている。
この炎暑に漆黒の深衣は、見ているだけで暑苦しい。
「桜薫様」白蓮は名を呼び、揖礼を捧げる。
「ここでは話せることも話せぬ。
場所を変えた方がいい」
言うが早いか、桜薫は白蓮の反応を待たず、足を進める。
都の喧騒から一歩、路地に入ると酒と料理を提供する店が並ぶ。
店といっても、露店のように野外に几と長椅子が設置してあるだけの、簡素な作りがほとんどであり、客は薄汚れた深衣を身に纏い、昼間だというのに酒を嗜んでいる。
辺りに、何とも言えない饐えた匂いが漂い、白蓮は無意識に息を止める。
ここが国の都だということを、忘れてしまうかのような光景に、白蓮は身を竦め恐る恐る足を進めて行く。
桜薫は白蓮の様子に、目もくれずに先を行く。
「案ずるな。左丞の娘のお前に、あんな者が入り浸る店など、用意はせぬ」
桜薫はそう口にすると、一軒の建物に入っていく。建物の中から、人の話す声がする。
店の女主人は顔なじみらしく、桜薫が姿を現すと破顔する。女主人は、桜薫と白蓮を仕切りのある席に通す。
椅子に腰を下ろすと、注文をせずとも酒と料理が運ばれてくる。相当、贔屓にしているらしい。
少し間を置いて、白蓮の元には水分をたっぷり含んだ瓜が器に盛られ、運ばれてきた。
建物の中で、日差しは遮られているとはいえ、蒸し暑いことに変わりはない。炎暑には瓜のように、水分をたっぷり含んだ食べ物が嬉しい。
「話とはなんだ」杯に酒を注ぎつつ、桜薫が問う。
「わたくしは、いつまでこうしていれば良いのですか」
「こうしてとは?」白蓮の質問に答えず、問いを重ねる。
「いつまで、待てば良いのでしょう。白桜様への想いを抱えたまま」
白蓮の言葉に、桜薫は酒を呑み干すと鼻で笑う。
「もう、白桜への気持ちはないと?
あれだけ、強く正妻の座を所望していたではないか」
白蓮は大きく首を振る。
「そのようなことでは……。今でも、白桜様のことを恋い慕い正妻の座を、諦めた訳ではございません」
桜薫の瞳をじっと見つめる。
「ならば、怖くなったか? 自分の欲望が、王宮に及ぼす影響を。
此度、企てている計画は、謀反といっても良い。上手くいけば、自分の思い通りに事が進むが、失敗すれば謀反とみなし三人まとめて、捕らえられるだろう。捕えられれば最後。自白するまで拷問が続き、生き残ったとしても身分の転落は免れない。しかも連座だろう。
それでも、策略に乗るか」
最後の確認とも言うべき事柄に、白蓮は迷くいなく頷く。
「後悔などしておりません」明瞭に言う。
後悔などするはずがない―。
希望が叶うなら、連座でも構わない―。
私が欲しているのは、王妃の座ではなく白桜様の正妻―。
白蓮の瞳に決意の色が見える。
そこまでして、正妻の座を狙っているのか―。
この執着心はどこから来るのだろう―。
その瞳の強さは、桜薫をもたじろがせるものがある。
「知っているだろうが今、王宮では白桜や父上を支持する海紅派と、叔母上を支持する無月派とで政派が二つに分かれている。
そして、叔母上は白桜ではなく私を正式なお世継ぎに、推挙なさるつもりだとか」
世継ぎの一件を聴いても、白蓮が表情ひとつ変えることはない。
「誰が世継ぎになろうと構いません。政派の分裂など、関係ないことでございます。
わたくしは、王妃の座も権力も欲してはおりません。ですが、白桜様が君主に即位なされた場合、わたくしは白桜様をお支えいたします」
桜薫には白蓮の内面が、見えた気がした。
白蓮が望んでいるのはあくまでも、白桜の正妻の座。王妃の座や権力などは、二の次なのだ。
白蓮が欲していることが、王妃の座や権力ではないことに、桜薫は自分が思うより厄介だと思い知る。
この娘は白桜を恋い慕う感情のみで動いている―。
桜薫の気持ちを知ってか知らずか、白蓮は再度口を開く。
「桜薫様。わたくしは、恐れているわけではございません。
焦っているのです。白桜様の想い人が、梅花という名の妓女だという旨の、文が届いて以降事は進んでいないようにお見受けいたします。
てっきり、桜薫様はわたくしの欲していることに、尽力などするつもはないのでは…と」
白蓮の冷ややかな言葉に、桜薫はゆるゆると頭を振る。
「果報は寝て待てと言うであろう?
私とそなたは利害関係だ。私は、父上と白桜にある意味復讐をしたいと思っている。そなたは、白桜の想い人に危害を加え、白桜の正妻の座を狙っている。方向は違うが、終着点は同じであろう。
そして、欲を言えばそなたには、危険な真似はして欲しくない。幾ら、後悔をしていないとしても。私も叔母上も、そなたを軽んじているわけではない。案じているのだ」
桜薫の本心か虚言か、判断の付かない物言いに曖昧に頷く。
これ以上話すことはないと、言わんばかりに桜薫は酒を嗜み料理を口に運ぶ。白蓮も、目の前に盛られた瓜に手を伸ばした。
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