甘美

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甘美

 桃苑が妓楼を訪ねてから、十日も経つと黴雨が開け炎暑がやって来た。  妓楼でも妓女が身に纏う襦裙が、絹より木綿の割合が多くなり、涼し気な色合いが多くなる。客に視覚的に、涼を感じて貰おうという計らいである。  夜になっても、気温が下がる気配がなく、湿気が多く蒸し暑い。梅花は少しでも、風に当たり涼を取ろうと自室の障子を開け放つ。行灯の光に誘われ、虫が障子から入ってくる。  以前、桃苑は次は白桜を妓楼に連れてくる、と言っていたが未だ約束は果たされないままである。  王族という立場上、おいそれと王宮をお忍びで抜け出すことが、難しいのだろうとは、梅花にも安易に想像できる。そこに、春玲の眼という監視が付けば尚更。  簡単に会えないことへの罪悪感か、白桜からの文は三日と日を置かず届けられている。芽李月が妓楼と王宮を繋ぐ、橋渡しの役割を成している。  白桜の文には、梅花のことをどれ程好いているか、大切に思っているかだけではなく、危険な目に合ってはいないかと、梅花の身を案じる文面である。 「ご指名にございます」奉公人からの一言で、障子を閉め自室を後にする。  奉公人は階を降りるのではなく、何故か階を上がり芽李月ら上級の妓女らが生活する場に、梅花を連れて行く。  そして突き当り。紺色の空に金の満月の襖絵が印象的な、芽李月の部屋の前で足を止め声を掛ける。 「お連れいたしました」声を掛け奉公人は振り返ると、梅花に揖礼を捧げ廊下を引き返す。廊下には、梅花のみが残された。  廊下はしんと静まり返り、客や妓女の嬌声ひとつ聞こえない。  ひとり残され、襖に手を掛けようと手を伸ばすと、梅花が襖を開けるよりも先に、誰かか襖を開ける。 「お待ちしておりました」襖を開け、姿を見せたのは他でもない桃苑である。  事態が呑み込めず、呆けた表情を見せる梅花を桃苑は中へ誘う。 「何故、桃苑様が……?」 「この状況を、誰かに露見されたら面倒なことになります。早く中へ」  桃苑の顔をじっと見つめている、梅花の腕を引き部屋に誘う。  部屋の中は、幾つもの行灯が灯され、昼間のような明るさである。香が焚かれ甘く妖艶な香りが漂う。   「何故、桃苑様が……」腕を掴まれたまま、梅花は再度同じ問いを重ねる。 「お約束したではありませんか。近いうちに、白桜様をお連れすると」  桃苑の言葉に、大きく目を瞠る。 「ですが、王妃様の監視の目が……!」  声を大にして、桃苑に詰め寄る。 「父上と母上は今日から暫くの間、蓮華に避暑に向かわれた。夏の盛りを終えるまでは、帰ってこられぬ」  今まで桃苑の背に隠れて、見えなかった白桜が背後から声を上げる。 そういえば……。  白桜の言葉で、今朝都がなにやら騒がしかったことを思い出す。あれは、桜月と春玲を乗せた輿が通過するからだ、と合点がいった。  都はこの時期、炎暑に見舞われる。故に毎年、炎暑を避けるために蓮華にある行宮に向かい羽を伸ばす。  白桜としては、今年は桜月は向かうとしても、春玲は息子を監視するために避暑には行かぬだろうと予想していた。  しかし予想とは裏腹に、桜月と春玲ふたり揃って、行宮に出立した。  この機会を、逃すわけにはいかまいと、こうして桃苑と共に妓楼に出向いたのである。 「桃苑。腕を離してやれ」白桜の一言で、桃苑が今気づいたかのように、腕を離す。   「失礼いたしました。  ではわたくしは外で、人払いをしております」  気を利かせて、桃苑が部屋を後にする。部屋には芽李月も居らず、白桜と梅花の二人きりである。 「芽李月さんは……」部屋の主がいないことを、不審に思い見回しつつ問う。 「あの者なら、今日だけ下で客を取っている。  二人きりになりたいと、話を持ちかけたら、このような配慮を」  梅花と白桜の関係を知り、尽力してくれている芽李月のことだ。快く、白桜らの頼みを受けたのだろう。   「梅花」丸みのある声音で名を呼ぶと、腕を掴み身体を引き寄せる。梅花が戸惑う暇もなく、梅花を抱き寄せ背に腕を回す。  その瞬間、梅花の心臓が跳ね上がる。 「梅花。すまない。  そなたを正妻にと、動いてはいるが何分母上が手強く……。父上もお力添えをしてくださってはいるがいつになるか……。  桃苑から聞いているだろうが、私の兄が母上と手を組んでいる。それ故、梅花を危険な目に合わせるのでは…と」  白桜の悲痛な声に、梅花は顔を上げ首を横に振る。 「覚悟しております。ですから、ご自分をお責めにならず」  梅花の気丈で健気な一言に、白桜の胸が締め付けられる。 辛いのは梅花の方ではないかー?  白桜は再度、梅花を抱きしめる。  白桜の体温が、息遣いが、心臓の鼓動が、この瞬間が幻ではなく現実なのだと、実感させる。体温から、白桜の梅花への押さえようのない恋心と決意が、伝わってくる。  白桜の気持ちに応えるように、梅花も白桜の背に腕を回す。ふたりの体温が、混ざり合い溶けていく。  寝台にふたり並んで腰を下ろす。白桜は梅花の手を握り、梅花は白桜の肩に凭れ掛かっている。   「母上が離宮へ、出立するとは思わなかった」  白桜が静かに切り出す。 「王妃様は、わたくしたちをお許しに……?」  梅花の言葉に、白桜は「いや」と短く答える。 王室の秩序と繁栄に対する強い執着心と、賤民に対する嫌悪を持つ母上が、易々とこの関係をお許しになるとは思えない―。 何か裏があるはずだ―。 「自分が王宮を離れている間、誰か信頼できる者に監視を頼んだのやも知れぬ。無月派の官吏か……。考えたくもないが、兄上かに」  梅花の返事を聞かぬまま、白桜は話し続ける。 「桃苑や父上には、梅花を入内させる術が必ずあると言われている。私もそう信じ動いている。  梅花には、我が妻として、国の母として入内してもらいたい。  母上に、何を言われようとも、私の気持ちが揺らぐことはない」 「わたくしに、王妃など務まるでしょうか。王室の仕来りも知らぬのに」  梅花はずっと胸にある不安を吐露する。  王妃というのは、単に王の正妻や国の母というだけではなく、内廷と女官の主として、在るものである。  古から、外廷は王のもの内廷は王妃のものという風潮がある。 「確かにそなたは、政や王宮の仕来りに疎いやも知れぬ。しかしその分、賤民の生きにくさや不甲斐なさを身をもって経験している。故に、民の生活に寄り添った王妃になるのではと、期待している」  自分はそこまで、期待をされるような者ではない。妓女という、卑しい存在。 「そなたにとって、王妃の身分は重圧でしかないであろう。しかし私は、そなたが王室に入ることで、国が変わると思っている。 王室や政が良民の為だけではなく、全ての民の為にあるものたのだと。意識が変わるのではないかと。 いや違うな。正しくは、政治というものははじめから、君主の趣味私欲の為にあるものではない。この国を、弥栄にする為に存在するのだ。 そなたには、私の傍にいて欲しい。私が、王となった暁には、私が民の為により良い政が出来るように」  国の行く末をまっすく見つめ、昂然(こうぜん)と目を輝かせて語る。 白桜様は私にないものを、持っていらっしゃる―。  その瞳は梅花に向けられる。梅花は思わず瞳を逸らす。 「白桜様」梅花は凭れていた頭を起こし、白桜と向き直ると姿勢を正す。  王宮に入内する前に、どうしても確かめておきたい事柄がある。 「わたくしは白桜様が、お思いになるような人柄ではございません。  特に政に関しては、素人と言っても良いくらいでございます。それでも、構わないのでしょうか」  梅花の真剣な問いとは裏腹に、白桜は声を上げて笑う。予想外の反応に、梅花はどのような顔をすれば良いか分からず、戸惑う。 「悪い。あまりに分かり切ったこと故……」  だからとは言え、なにも笑うことないのではないか。 「梅花」むくれている梅花の名を呼ぶ、柔らかく優しい声音。腕を伸ばし、優しく抱き寄せる。 「政の才がある王妃が、国を良くするとは限らない。寧ろ、権力を使い官吏を思い通りに操り、国政を牛耳ろうとする。現王妃のように。  故に、王妃になるのはそなたが良い。そなたと共に、国の行く末を見ていきたい。  それとも、私に好いている女人以外を王妃にせよと? そなた以外の女人が、私の正妻など絶対に嫌だ」  “絶対に嫌だ”とはっきりと明言し、幼子が駄々を捏ねるように首を振る。  その姿に、梅花も思わす笑い声をあげる。  襖の奥から、白桜と梅花の楽しげな笑い声が聞こえて来る。声に耳を澄ましている、桃苑の頬が思わず緩む。  廊下には桃苑の他に、誰一人として他の者はおらずしんと静まり返っている。白桜と梅花の為に、人払いをしてある。 静寂の中、微かに音がする。桃苑は注意深く耳を澄ます。  音は階を上がってくる。 客の相手を終えた妓女が、戻ってきたのだろうか―。  最初は、そう思案していたが、それにしては静かである。女人なら、歩揺や佩玉の音が混じるはずであるが、これは足音のみである。    桃苑はごくりと唾を呑み、深衣の袂を探る。万が一の時の為に、袂に短刀を忍ばせておいたのである。  足音が階を上がり切ってしまうと、遠くにぼんやりと行灯の灯が見える。  行灯が揺れると同時に、足音の持ち主が纏う闇が薄れ姿が露わになる。  正しくは、漆黒の深衣を身に纏っている為、闇に顔と行灯のみが浮いているような、奇妙な情景である。  その人物は笑っている。いや、嗤っている。  足音の正体に気付いた桃苑は、目を瞠った。この場に最も、不釣り合いな人物。招かねざる客、と言った方がいい。 「何故あなたが」桃苑の問いに、客は嘲る笑みを浮かべながら、躊躇もなく口を開いた。 「伯母上の命だ。弟が、勝手な行動をせぬよう見張れと」  桜薫は桃苑を睨み付けていた。
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