守護

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守護

 年の瀬の忙しさと共に、聞こえてきたのはひとつの奇聞である。 「するとなにかい? 左丞のお嬢様が、吏部尚書の御子息と縁組みすると?」 「らしいねぇ……。どうやら、王様が一枚嚙んでいらっしゃるらしい」 「王様が? どういうことだ?」 「白桜様との縁談が白紙になったことへの贖罪だとか」 「でも、白桜様の想い人は妓女だって言うじゃないか……。私としては、お嬢様と白桜様はお似合いだと思うけどねぇ……」  新年を迎える準備の傍ら、都では老いも若きも、男女も関係なくそんな話で持ちきりになっていた。    当然、梅花も人づてに奇聞は耳にしていた。  白桜との関係が表沙汰となり、桜薫や春玲の行動が明らかになるにつれ、梅花を指名する客は少なくなっていた。  地面に紅葉や銀杏の葉が帯を広げる季節になると、指名され部屋に行くと、あることないこと尋ねられ、“妓楼の分際で王子に手を出すなど穢らわしい” などと悪口(あっこう)を言われ、傷心して自室に戻ってくることが多くなった。    唯一、傷心を癒してくれるのは、時たま様子を見に来る桃苑と白桜からの文、そして芽李月の気遣いである。  以前、“強くならなければ” と漏らした梅花に、桃苑が言った “梅花殿は充分強い女人だと思う” という言葉も、支えになっている。  芽李月以外の妓女は、梅花を軽蔑し一度自室を出れば、好奇の眼で視線を送り囁き合っている。 以前、梅花を軽蔑し好奇の目で見ている他の妓女に対して、苦言を呈していた華琳も今は、見て見ぬふりをしている。  芽李月の瞳には、傷心している梅花が憐れに映ったのだろう。  今年もあと二十日となったある日。  芽李月と楼主に呼び出され、夜見店が始まる前に彼女の自室に向かう。  まだ酉の刻まで間はあるが、すでに闇夜に包まれ、冷たい風が吹く。裸足ではなくとも、冷たさが足の裏から競り上がり、梅花は身震いする。  芽李月に声をかけると、彼女は直ぐに梅花を招き入れる。自室には既に楼主が待機している。  自室は火鉢で暖められている。    芽李月に椅子を勧められ、梅花は腰を下ろす。 今度こそ、追い出されるかもしれないー。  梅花の気持ちを知っている芽李月が、そのようなことするとは思えないが、万が一ということもある。  梅花は神妙な面持ちで開口を待つ。 「今の状況から鑑みるに、客を取ることは不可能であろう」  楼主の静かな声。  客を取らないのであれば、妓女として妓楼にいる意味がないのではないか。 「では、私はこれからどうすれば」  梅花の切実な問いに、楼主は芽李月を見頷く。芽李月は笑みを浮かべ、口を開く。 「簡単なことです。  客の前に姿を現さなければ良い」  思っても見ない言葉に、梅花は目を瞠る。 「追い出されるとでも思っていましたか?  王族と関わりがある妓女は、不要だと」  梅花の懸念を見抜き、芽李月は問う。  芽李月の言葉に、梅花はびくりと肩を震わせる。芽李月の物言いは、図星である。  芽李月は温和に微笑む。 「貴女には裏方として、動いてもらいます。朝から夜見世が始めるまでならば、客や他の妓女らと顔を合わせることもないでしょう」  芽李月と楼主の計らいに、躊躇いつつ頷く。 なぜそこまで、自分に尽力してくれているのか―。  王族と関わりがある妓女を置いておけば、妓楼そのものも危険に晒されるのは時間の問題。 なのに何故―。 「どうしてそこまで……」梅花の呟きに、楼主が躊躇いつつ口を開く。 「実はな……」そこで言葉を切ると、芽李月が立ち上がり部屋の隅に備え付けされている、鏡台の引き出しを開け、一通の立て文を取り出す。  芽李月は立て文を手に、再度梅花と向かい合わせに座ると、口を開く。 「実は、白桜様と桃苑様から、文を預かっています」  梅花は思わぬ言葉に、目を見開き呆けた表情をする。  芽李月に文を預けるなど、桃苑の口からも白桜の文からも見聞きしておらず、全くの初耳である。  梅花の寝耳に水の表情を、尻目に芽李月が言葉を紡ぐ。 「貴女に何があっても、ここで生活が出来るように尽力をして欲しいと。追い出すような真似だけは、しないで欲しいとご所望です。  恐らく、桃苑様から貴女の様子を聞いていらっしゃったのでしょう。  貴女が、傷心していることが、白桜様にとってはいたたまれなかったのではと」  芽李月は文を几の上に置き、視線を送る。  文には礼紙に、芽李月と梅花のふたりの名が認められている。  梅花は断りを入れ、文を手に取り礼紙を外し開く。文には、芽李月が話したことと同じ旨が、白桜の文字で認められている。  更に文には、白蓮と吏部尚書の御子息と婚姻が上手く行きほとぼりが冷めるまでは、客の前に姿を見せなくても良いように、手筈を整えてやって欲しいとも、認められている。 “わたくしや若様が、貴方を守ろうとするのは、決して貴方が弱いからではございません。貴方が大切な存在だからです。わたくしにとっても、若様にとっても”  以前、桃苑に掛けられた言葉が蘇る。 気づかないうちに、守られていたのだ。ずっとー。  己のせいで、梅花が衣食住を失うことがないように。  白桜と桃苑。ふたりとも優しい人物だ。  文に目を通しているうちに、優しさが胸に染み涙腺が緩む。梅花は衣の袖で、目頭を押さえ気持ちを落ち着かせる。  文を閉じるともう一枚、立て文が同封されていたことに気づき、文を開く。そこには大晦日の夜、妓楼で会うことは出来ないか、という打診であった。 「芽李月さん」どうした良いのか判断が付かず、芽李月に文を見せる。  文を手に取り、目を通すと芽李月は頷き笑みを浮かべる。 「構いません。  大晦日ならば、他の妓女も出払い妓楼には私と楼主以外、誰もいません。  故に一階のいちばん奥、“牡丹”の部屋を用意いたします」  月花楼は大晦日から新年四日まで、店を閉める。  大晦日の夜には、年越しと新年を祝う花火が打ち上げられ、皆思い思いの場で鑑賞する。  芽李月が楼主に「よろしいですね?」と、確認を取る。楼主は「あぁ」と短く賛同を示す。  外から酉の刻を知らせる、鐘の音が聞こえてくる。  この音を合図に、妓楼は客を迎える。 「では私はこれで」  楼主は声を掛け、立ち上がり揖礼をし部屋を後にする。 「梅花。貴女もそろそろ……」  椅子に座ったまま、楼主が出ていった襖を見つめていた梅花に促す。  声に振り返ると、文を手に立ち上がり揖礼をし楼主と同じく、部屋を後にする。襖を開け、廊下に一歩足を踏み出せば、下から賑やかな声が耳に届く。  あと数時間で年が明ける。    しんと静まり返った妓楼の一階。いちばん奥。芽李月の計らいで用意された、“牡丹”と名が付けられた部屋で、梅花は白桜と逢瀬を重ねていた。  梅花は白桜の隣に腰を下ろしている。  妓楼には梅花と白桜、万が一の為待機をしている桃苑、芽李月と楼主の他には誰もいない。芽李月の予想通り、皆出払っている。  普段なら、客と妓女の声で騒がしい程の妓楼が、物音ひとつしないのは奇妙な気分である。  この大晦日に王宮を抜け出すのは可能なのか、と白桜に尋ねれば、白蓮と吏部尚書の縁組みが本決まりとなりかけている今、春玲の監視も以前ほどは厳しくないのだ、と答えた。   恐らく、春玲は白桜と梅花の関係よりも、白蓮の縁組みが上手く行くかに、関心は向いているのだろう。 「今年ほど濃密な年は、ないかもしれぬな……」  盃に注がれた熱燗に、視線を落とし白桜がひとりごちる。  部屋には白桜の静かな声と、火鉢が爆跳する音のみが響いている。  盃に口を付け紹興酒を飲み干す。盃を置くと、ほっと息を吐く。  本音を言えば、白桜はそこまで酒に強くはない。普段から、晩酌を楽しむ習慣はない。  故に、妓楼に訪れる際には桃苑から“くれぐれも呑みすぎないように”と釘を刺されている。  白桜にとって今年は、濃密で実に様々なことがあった年であった。梅花に出会ったことに始まり、白蓮との縁談、縁談を白紙に戻したことによる、官僚らの上訴……。  出来事が次から次へと思い出され、白桜はふっと笑う。どれも、今年中に起こったことなのに、既に懐かしい。  梅花にとっても今年は特別な一年であった。  白桜と出会ったことで、縁も所縁もなかった王宮と関わるなど誰が予想しただろう。  更には、王族を恋い慕うなど去年の今頃は、夢にも思わなかった。  この“牡丹”の名が付いた部屋は、白桜が己の正体を明かした時に、使用した部屋であり思い入れが強い。   「芽李月さんから、私の処遇について文を出していただいたと聞きました。ご配慮感謝いたします」  梅花は謝意を述べ頭を下げる。 「いや。桃苑からそなたの様子を聞いて、気になっていた。処遇でどれだけ、周りの雰囲気が変わるか分からぬが……。やらぬよりかは良いだろうと」 「お陰で、悪口も周りの視線もましになった気がいたします。流石に、全て無くなった訳ではございませんが……」 「そうか……。なら良い」白桜は笑みを浮かべ、梅花の手を取る。梅花も想いに応えるように、笑みを向け白桜の手を握る。梅花が身に纏っている、梅重ね色の裙が鮮やかである。  一度流れた奇聞を、全て消し去るのは難しい。それが、妓楼という特殊な場ならば尚のこと。 「左丞の娘の縁組みが上手く行けば、梅花が入内することも容易になると思っている。  父上を支持する政派に政局が傾けば、こちらにとっては好都合だ。  それでもまだ、母上を支持する官吏らの説得や、兄上のことをどうするか、考えねばならぬことが数多あるが……」  梅花の手を握ったまま、静かに語り始める。梅花は白桜を見つめ頷く。    白蓮が嫁ぐのは、遅くても来年中。早ければ、来年の秋頃には婚儀が済むのではないか、と白桜は予想している。  また通常、王子の正妻になる女人には、婚儀までに妃としての振る舞いを習得するための、修練の期間が設けられる。  よって、梅花が正式に白桜の正妻と認められるには、早くて再来年であろうと思案している。 「再来年……」白桜から今後の見通しを耳にした梅花は、そう呟き視線を落とす。  てっきり、来年中には婚儀を終えられると思っていた。しかし、現実は思ったより厳しいものである。  再来年という言葉が、途方もない道のりに思えため息をひとつ吐く。だたの良民ではなく、王族に嫁ぐのだから同然なのだが、どうしても不穏な感情が顔を覗かせる。 「待っていてくれるのであろう? 何時になっても」  梅花の不穏な表情を覗き込み、優しく笑い掛ける。 「勿論でございます」梅花は顔を上げ、白桜を真っ直ぐ見つめきっぱりと言い切る。 “強くなる”と決めたのだ、なにがあってもー。  梅花の意思を汲み、白桜は手を伸ばす。笑みを浮かべ、梅花の頭を二・三度優しく撫でる。  白桜が食事を終えると、ふたりは縁側に腰を下ろし花火が打ち上る合図である、半鐘が鳴り響くのを寄り添いながら今か今かと待ち侘びる。  白桜が己の正体を明かしたあの日。満開の花を咲かせていた樹桜は今、葉を落とし寒々しい姿である。  ふたりの間には、白桜の好物である芝麻球が六つ湯気を立てている。  白桜はひとつを手に取り、半分に割り息を吹きかけ冷ますと、半分を梅花に渡す。 「頂きます」突然のことに、驚きながらもそう断り口に運ぶ。胡麻の香ばしさと、皮のもちもちとした触感、餡の甘さが雑妙で梅花は眼を輝かせる。  眼を輝かせている梅花を、莞爾を浮かべながら白桜は二つ目の芝麻球に手を伸ばす。  梅花のはしゃいでいる様子に、胸を撫で下ろす。桃苑から、梅花が傷心しているようだと、耳にしてから気が気でならなかった。  梅花の視線が、白桜に向く。 「どうかなさいましたか?」首を傾げ問う。  白桜は莞爾を浮かべたまま、「いいや」と頭を振る。そのまま梅花の腕を引き、抱き寄せる。 「安心した。そなたが笑っているのを見て」  白桜が甘い声音で耳元で囁く。  思いがけない言動に、白桜から目線を逸らす。胸が高鳴り、目を合わせることが難しい。  胸の高鳴りが収まるのを待っていると、半鐘が響き始める。  梅花は半鐘の音に釣られ、顔を上げる。新たな一年の始まりである。  音が完全に空虚に消えると、闇夜に破裂音と共に花が咲く。梅花は更に近くで見ようと、立ち上がり数歩あゆみを進める。破裂音が空気を震わせる。  以前、都で見た時よりは大きさは劣るが、それでも充分な迫力である。 「来年…いや既に今年か。良い年になると良いな」  白桜が背後から、しみじみと言う。 「わたくしもそう思っております」  梅花は振り返り、賛同を口にする。梅花の背後で、また花火が上がった。    
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