暴走

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暴走

 宴当日のまだ夜が明けきらぬ寅の刻(午前五時頃)。  尚食に行灯を手にした、桜薫が姿を現す。  春玲の指示で、もう一つの細工をしに来ていた。  桜薫はお膳が並んでいる几の前で足を止める。懐から紫檀色の巾着を取り出し、袋を開ける。中には粉末にした麝香豌豆が入っている。桜薫は桜月の名が認められた、麻紙が置かれたお膳に足を進める。盃に手を伸ばすと、その中に粉末を液体より若干多く程入れる。溶けやすいように、盃を前後左右に傾ける。  念のため匂いを嗅ぐが、微かに甘い匂いがし安堵する。  粉末は液体に溶け、一見しただけでは分からなくなる。  粉末が完全に溶けたことを確かめ、足早に建物を去る。  既に空は白み始めている。まだ、女官や内官の姿を見ることはないが、それも時間の問題だろうと危惧する。  自分が尚食の付近をうろついていたと、露見された場合、これまでの計画は全て水の泡である。それだけは、避けなければならない。  桜薫は行灯の火を吹き消し、春玲の待つ宮に足を進める。  月花楼はその日、いつも以上に喧騒に包まれたいた。朝早くから、宴に参加する妓女らが、色鮮やかな襦裙を身に纏い、飾り物を身に着け身を飾り立てる。  それは梅花も例外ではなく、金春色の裙に薄黄蘗(うすきはだ)色の衣を合わせている。衣と裙に一重梅色と金色の糸で、刺繍された梅の花が美しい。更には、髪を結い歩揺を挿し化粧をする。  梅花はお守り代わりと、白桜からの文を懐に入れる。 「準備は整いましたか」皆の動きを見計らって、芽李月が姿を現す。  普段から色鮮やかな襦裙を身に纏っている芽李月だが、この日はより一層色鮮やかな出で立ちである。芽李月の出で立ちに、他の妓女らから感嘆の声が上がる。  妓女らが「はい」と声を揃えると、芽李月は満足そうに頷く。 「では参りましょうか」  そう促し身を翻す。これから、王宮まで皆で列を成し、歩いて行くのである。  梅花を含め他の妓女らも、芽李月に続いた。    外はまさしく春爛漫。空は快晴で、日差しの暖かさが感じられる。  妓楼が並ぶ色街を抜け、都の大通りに出ると通行人が皆足を止め、妓女らを物珍しそうに眺めている。楼主と芽李月を先頭に、列を成して歩く。  男性の中には、妓女らの姿に視姦の眼を向け、鼻の下を伸ばしている者もいる。 「しかし、王妃様が妓女を宴にお招きになるなんて、どういう風の吹き回しだろう。宮妓ならまだしも」  どこからか、そのような声が聞こえ、梅花は思わず視線を下に落とす。  自分のことが話されている訳ではないのに、周囲の声に敏感になる。  暫く歩き、芽李月の「到着しましたよ」という言葉で、梅花は顔を上げる。  間の前には、背の高い城壁が聳え立ち、梅花らを迎えている。荘厳な雰囲気に、梅花らは思わずたじろぐ。  梅花らの様子を一瞥し、芽李月は城門で警備に当たっている官吏に、宴で参内した旨を告げる。  官吏は揖礼を捧げ、参内を許す。  王宮内は王族以外の男性は、入ることは許されない。故に楼主は、宴が終わるまで城門の前で待機することになる。  梅花はごくりと唾を呑み込み一呼吸。胸が高鳴りうるさい程である。  梅花らは神妙な表情で、背の高い城門を潜った。  梅花らが城門を潜ったのと同時刻。  尚食には思わぬ客人が訪れていた。客はまるで品定めをするように、膳に並んだ料理を一つ一つ確認していく。  どうして、と蕾柚は思う。どうして、内廷の主である王妃がこの場にいるのか。今まで、そのような宴や行事であっても、このようなことなかったというのに。  同僚の女官らと共に、春玲の動きを見ていた蕾柚は拳を握り締める。蕾柚の視線に気づかぬまま春玲は、一つ一つ膳を確かめていく。特に、桜月と梅花の名が認められた麻紙が、置いてある膳は入念に。  春玲は桜月の膳に置いてある、盃を手に取るとゆっくり前後に傾ける。  春玲の様子が、蕾柚には気が気ではない。自分がしたことが、露見されてしまわないかと、祈るような思いである。  蕾柚の視線に気づいたのか、不意に春玲が向き直る。 「なにか?」春玲がこの場に不釣り合いな程、朗らかに笑い優しい声音で問う。 「なんでもございません」春玲の視線と声音に、固い表情でそ答えるのが精一杯である。蕾柚の反応に春玲は「そう」と答え、また膳の方を見る。  春玲としては不備はなかったのだろう。  暫く確認を続けると、蕾柚ら女官を一瞥しその場を後にする。  目の前では、色鮮やかな襦裙を身に纏った妓女らが、管弦の音に合わせ優美な舞を披露している。  宴の会場である、内廷では桜が舞い見ている者を夢心地にさせる。  白桜は無意識に、梅花の姿を目で追っている。梅花も白桜の視線に気づき、にっこりと笑いかける。白桜は顔を赤くし、深衣の袖で顔を覆う。  白桜の様子を桜月が横目で見、頬を緩ませる。  春玲と桜薫は、妓女らに鋭い視線を送っている。  舞の披露が終わると、妓女らは用意された席に付く。先程舞を披露していた場を挟み、顔を上げると白桜ら王族の姿を見ることが出来る。  梅花の前には、原色の襦裙を身に纏った女性の姿。そして隣には、国王である唐紅の深衣を身に纏った男性、国王の隣に白桜、女性の隣には桜薫がそれぞれ席に付いている。  恐らく彼女が、この国の国母である王妃だろうと見当を付ける。王妃は目の前の妓女が、白桜の想い人だと見通しているように、梅花に鋭い視線を送っている。その視線に、思わず視線が下に落ちる。  暫く周りの談笑に耳を傾けていると、宴の料理が乗った膳が運ばれてくる。  梅花の目の前に膳を置いた女官が、梅花をじっと見つめ笑いかける。その意味深な表情に、梅花は首を傾げる。  先程の女官を目で追うが、既に姿はない。  梅花は気を取り直して、膳の料理に視線を移す。膳には趣味嗜好を凝らした、料理が並んでいる。どの料理も、菜の花や蕗の(とう)など、この時期らしい食材が使われ、季節の移ろいを感じさせる。  その中の一つに梅花の視線が止まる。  それは、これまで何度も白桜から届けられた落雁と全く同じものが、漆塗りの皿に三つ乗っている。 あの女官が―。  先程の笑みの理由を悟った梅花は、落雁を見つめ微笑む。  梅花は盃に手を伸ばす。盃には、桜の花を浮かべた酒が入っている。口縁に口を付け、ほんの少し酒を口に含む。 甘い―。  想像とは違う味に、微かに眼を瞠る。  白桜は隣の桜月と目の前の梅花の様子に、目を凝らしていた。 「白桜。どうかしたか」あまりに挙動不審になっていたのか、桜月が声を掛ける。 「いえ。なんでもございません」白桜は努めて朗らかに言う。  白桜は宴が何事もなく、終われば良いと思っていた。今日が終わればひとまず……。 「あの娘なのだろう。そなたの想い人は。先程舞を披露していた、襦裙に施されている梅の刺繍が美しかったな」  突然の発言に、白桜は眼を瞠る。桜月は梅花の顔は知らないはずである。 なのにどうして……。  白桜の反応を茶化すように、桜月は肩を震わせる。 「そなたはずっと目で、あの娘を追っていた」  己の行動を見られていた、と理解した白桜は顔から火が出る思いである。 「父上……」そう声を掛けたものの、後の言葉が続かず黙りこくる白桜である。 「なんとしてでも、そなたらの願いを叶えてやらねばならぬな……」  桜月の独りごちる声が、花びらに乗って舞う。  梅花は口を覆い欠伸をひとつ。どういうわけか、先程から眠気が襲い何度も何度も欠伸を繰り返す。  宴の料理で満腹になったからなのか、麗らかな日和のせいなのか、緊張から解放されたからなのか、今一つ理由に見当が付かない。  周りを見渡しても、そのような妓女はおろか官吏はいない。ただ、国王だけは梅花と同じく、目を擦り欠伸を繰り返している。 「梅花?」梅花の様子を案じた芽李月が、彼女の背後から声を掛ける。芽李月の声を聴き、梅花は腰を浮かせる。しかしその瞬間、ぐらりと身体が揺れ目の前が白に染まるー。  梅花が倒れる様子は、白桜の瞳にはゆっくりとした速さで映っていた。  他の妓女らから悲鳴が上がる。 「梅花!!」白桜は腰を浮かせ、声を大にして梅花の名を呼ぶ。  眠り薬の作用で、睡魔に襲われるだろうと予想していたが、まさか倒れ込むとは予想外のことである。  その刹那、視界の端で唐紅の深衣が揺れる。 「王様!!」柊明の絶叫を聴き、視線を横に向けると、桜月が倒れ込んでいる。桜月は苦悶の表情を浮かべている。  桜月にも梅花と同じく、眠り薬の細工以外はしていない。ならば何故、苦悶の表情を浮かべるような事態になるのか。  招いた妓女だけではなく、国王まで倒れたことで、内廷は阿鼻叫喚に包まれる。  桜月は内官ら数人で華葉宮に運ばれる。 「彼女はこちらで預かる」  白桜は、妓女らに近づきそう口にすると軽々と梅花を抱きかかえる。他の妓女らから、黄色い声が聞こえるが気にしている暇はない。  今は誰も使用していない、翠雨宮に運び寝台に寝かせる。梅花から、規則正しい寝息が聞こえ、ほっと胸を撫で下ろす。梅花の手を両手で包み握る。  一旦桜月の様子を見に行くため、翠雨宮を出る。白桜の頭の中に先程、桜月が倒れ込んだ時の映像が浮かぶ。あの場で、春玲と桜薫のみが、周りの様子を静観していた。まるで、最初からこうなることを予想していたかのように……。 やはりあの二人が―。 蕾柚は無事だろうか―。  蕾柚にはある命を与え、月旭宮を探らせている。万が一、春玲と鉢合わせた場合、こちらの計画は水の泡である。  白桜は前を見据え、拳を握り締める。内廷は落ち着きを取り戻し、今は内官と女官らが後片付けをしている。その中に、蕾柚の姿を認め胸を撫で下ろす。    華葉宮の前では、桃苑が待機していた。 「梅花を頼む」そう声を掛け、宮に足を踏み入れる。  桃苑は命に従い、翠雨宮に足を向ける。  
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