異郷

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異郷

 ec17e4cc-ebbe-4ceb-bd92-16e3eba53aa7 蕾柚が白桜を訪ねてから一ヶ月半程経った。  その間、白桜が訪ねて来ることはない。多忙なのだろうと、蕾柚は思案しているが梅花のことを思うと歯がゆい思いである。  都は当に黴雨の季節になり、湿度が高く蒸し暑い。前日まで降り続いた雨は、夜が明けると同時に止み、今は雲の切れ間から薄日が差し込む。    この日は修練もなく、梅花は椅子に腰を下ろし宮にて秘書省で借りてきた、国史についての書物に目を通している。  秘書省とは、国の国史や書物更には暦など、国に関する記録を保管し、祭儀や祝言を所管する部署である。  秘書省にて保管されている書物は、王宮に住まう者は勿論、官吏や内官なら自由に借り読んでも構わないことになっている。  雨が降っていた為、宮の障子窓を閉め切っていたからか、中の空気が淀んでいるように感じる。 「窓を開けましょうか」蕾柚は梅花に静かに声を掛ける。梅花は顔を上げ「ええ」と答える。  入内した頃はぎこちないものだった蕾柚とのやり取りが、今では少しぎこちなさが解消しているように感じる。  梅花に付いている他四人の女官らは、掃除や宮の整備、他の部署への小間使いなどで、梅花と顔を合わせない日もある。  蕾柚が障子窓を開け、空気を入れ替える。湿気を含んだ風が、宮の中まで届く。  静寂に包まれた宮に、来客があったのはその時である。不意に入り口の扉が開く音がする。  腰を浮かす梅花を梅柚が、「わたくしが見て参ります」と制する。梅花が頷くと、蕾柚が扉に向かう。  蕾柚と客人が話す声が耳に届く。客人は内官のようだが、梅花のいる位置からは話の内容までは聞き取れない。  蕾柚が伴って来たのは、他でもない桃苑である。桃苑の姿を認めると、書物を閉じ文机の上に置く。桃苑は梅花と文机を挟み、向かい合わせになると跪き頭を垂れる。 「突然申し訳ございません。白桜様からの言付けを、お伝えに参りました。  明日の午後…未の刻(午後三時頃)、薫風宮にお越しください。いえ、時間になりましたら、お迎えに上がります」 「どういうことでしょう……?  明日は修練の予定ですが……?」  梅花が問う。  入内して数か月経つが、未だに桃苑や蕾柚など、自分に付いてくれている人に対して、若干敬語が抜けないでいる。 「修練を担当する尚宮の女官には、既に話を通し了解は得ております。  どうか、お気になさいませんよう」  桃苑はそう言い立ち上がる。しかし、視線は梅花から逸らしたままである。桃苑の視線が、文机の上に置いてある書物に止まった。 「国史をお読みになっていたのですね。  白桜様も良く、その書物をお読みになっていらっしゃいました。いえ、今でも時折、秘書省で借りお読みになっていらっしゃいます」  桃苑は懐かしそうにそう口にする。 「では、明日お待ちしております。  それと、来客に対応する際はご自身ではなく、側仕えの女官にお任せください。客人が梅花様に、危害を加えるやも知れません」  声音は柔らかだが、どこか棘が混じる。  桃苑は揖礼を捧げると、宮を後にする。  忠告とも取れる発言に梅花は、後悔と羞恥心が混ざったようななんとも言えない表情をする。まだまだ自分は世間知らずだ、と遠回しに言われたかのようである。 「桃苑様はご心配なのですよ。白桜様は勿論でしょうけど、梅花様のことも。危害を加えられる種は、出来るだけ蒔かない方が良いでしょうから」  梅花の表情を見た蕾柚がそう嗜める。  桃苑の言い分も蕾柚の言い分も、どちらも分からない訳ではない。妃が来客に直接対応すれば、万が一ということもある。ここは、慣れ親しんだ妓楼ではない。謀反と陰謀渦巻く王宮である。  しかし、蕾柚の言葉を聞いても、納得しきれず梅花が表情を変えることはない。言葉にできぬ思いに、沈黙を貫くしか術はない。    表情を変えぬ梅花に、蕾柚は微笑み掛ける。 「一息付きましょうか。  尚食から、何か菓子をお持ちいたします」  梅花の返事を聞くより先に、蕾柚が宮の入り口に向かう。  蕾柚としても、自分にどう接すれば良いのか、まだ距離間を掴めていないのではないか―、と背を見ながら梅花は思う。  翌日。  約束通り桃苑が、梅花が修練を受けている尚宮の建物まで迎えに来ていた。修練を担当している、女官が快く二人を送り出す。  先導する桃苑の後を梅花が歩く。尚宮の建物から白桜が住まう薫風宮までは、まっすくな道のりである。  桃苑は時折振り返り、梅花が遅れていないか確認を取る。その行動に、梅花を心配しているのだ、という蕾柚の言葉が蘇る。  これまでの付き合いで桃苑が、悪い人ではないことは梅花も充分承知している。根は優しく、白桜に忠誠を誓う生真面目な人なのだ。  薫風宮の前では、白桜が二人の到着を待ち焦がれていた。二人が宮に繋がる階を上がると、桃苑が「お連れいたしました」と声を掛ける。 「ご機嫌麗しゅうございます。白桜様」  梅花はそう声を掛け、恭しく揖礼を捧げる。恭しく気品ある言動に、修練が順調に進んでいることを察し白桜が目を細める。 「息災か? 王宮での暮らしはどうだ? 何か困っていることはないか? 蕾柚らは良くしてくれているか?」  梅花の返答を待たずに、白桜が問いを重ねる。梅花は答える隙がなく、微笑むのみである。横から、桃苑が咳払いをする。 「白桜様。そう矢継ぎ早に問うてはなりません。梅花様がお困りではありませんか」  まるで、幼子を嗜めるかのような物言いに、梅花は思わず衣の袂で口を隠し肩を震わせる。普段から、このようなやり取りをしているのだろう。  梅花の様子に気づいた桃苑が、苦笑いをし口を開く。 「お見苦しいところをお見せいたしました。  どうぞ中へ」  桃苑がそう口にしつつ、梅花を誘う。  桃苑の先導のもと、宮に足を踏み入れる。  薫風宮は現在梅花が住まう翠雨宮と、外観と内観どちらも似通っている。相違点と言えば、簪や歩揺を収め、紅などの化粧を施す為の鏡台がないことぐらいである。  宮の中は二部屋に分かれており、手前には文机と数脚の椅子が備え付けられ。奥の部屋には、寝台が備え付けられている。他に家具らしきものはなく殺風景である。  文机に備え付けられた椅子の後ろの壁には、丸窓がはまっている。  白桜は文机を挟み、窓際の椅子に腰を下ろす。文机の上には、落雁や芝麻球(チーマーチュウ)龍鬚糖(ロンソートン)、月餅……などの菓子が並び、梅花は瞳を輝かせる。  どうやら、二人だけのささやかな茶会を開くために宮に呼んだらしい。  入内して、妓楼にいた頃よりも、菓子を口にする機会が増えた。しかし、此度のように一度に数種類の菓子が並ぶことはまずない。  瞳の輝きを保ったまま、梅花は白桜と向かい合わせに椅子に腰を下ろす。 「菓子に手を付ける前に、この文に目を通して欲しい。  どちらも、梅花の入内を祝う旨が認められている」  白桜は懐から、二通の立て文を取り出し、文机の開いている場に置く。一通は露草色の麻紙であり、もう一通は聴色(ゆるしいろ)の麻紙である。  桃苑が菓子の入った器を脇にどけ、長さ四寸(12㎝程)程の巻物を広げる。中に描かれているのは、天香国を中心とした他国の位置関係である。  天香国から見て北東に月暈国(げつうんこく)、北西に火紗国(かしゃこく)。二つの国が描かれている。 「これは天香国周辺を図式した地図でございます」  桃苑がそう口添えをする。  梅花は露草色の立て文を手に取り、紙縒りを外しそっと開く。文には、天香国と同じ言葉で、梅花の入内を祝う旨、国と王室の繁栄を願う旨が、可憐で丁寧な文字で認められている。  梅花は、文の最後に記されていた“月暈国・太后”の文字を認め首を傾げる。太后とは、国王の母を意味する。他国のことは不明だが、月暈国では太后が文を認めることになっているのだろうか。  梅花の反応に白桜が口を開く。 「梅花に文を読んでもらったのは、私たちが生きている国の他にどのような国が存在し、それらは我が国にどのような影響を与えているのか知って欲しかったからだ。いわばこれも、修練の一つと言えるだろう。  月暈国は現在、生まれつき身体の弱い王に代わって、太后が摂政として実権を握っている。国としては天香国と言葉や服装は同じだが、一番の相違点は政に月の満ち欠けや星の動きで国政を占い、その結果を政に反映させる…この政権体制が月暈国の特徴だと言える。  “月には神が宿る―”まるで御伽噺(おとぎばなし)のような(いにしえ)からの言葉が、現在でも民の拠り所になっている」  続きを桃苑が繋ぐ。 「元々、天香国の民で月や星への信仰が深い者が国外に集まり、小さな村を作り様々なことを月の満ち欠けや星の動きで占ったことが、月暈国の建国の初めだと言い伝えられております」 「故に、天香国と言葉や服装が同じなのですね。元々が同じだから」  梅花は文を畳み、文机に置き言う。梅花の言葉に桃苑が頷く。  梅花は文机に広げられた地図を見つめる。視線に気づいた桃苑が、月暈国からの文を地図の上に置く。 「もう一通にも目を通して欲しい」  白桜に諭され、梅花は聴色の立て文を手にし、文を開く。内容を読もうと視線を落とし、そのまま固まる。  文には、絵とも文字ともつかぬものが書かれている。 「読めずとも当然でございましょう。  その文を出した火紗国は、天香国や月暈国とは異なった服装や文化、言葉を持つ国でございます」  梅花の行動を見直ぐに視線を逸らすと、桃苑がそう言う。 「火紗国は小国故、まだまだ不明な点が多い。分かっていることは、女帝が国を治めていること。女帝の顔を知っているのは、側仕えの女官と数名の官吏のみ。更に、一年を通して気温が高く、朝晩の寒暖の差はあるが四季はない」  白桜が淡々と言う。  限られた数名の者にしか姿を見せぬ女帝、四季がないという風土―。  女性がどのように国を治めるのか、四季がないという国で民はどう生活するのか。  天香国からもいや都すら出たことがない梅花にとって、火紗国の特徴は馴染みのないものばかりである。   「わたくしも火紗国の言葉を、学んだほうが良いのでしょうか」  白桜を見つめ梅花が問う。白桜は腕を組み思案する。 「確かに、これからそなた宛てに火紗国から文が届くこともあるであろう。故に、多少の読み書きは出来た方が良い。  だが、焦らずとも構わない。学ぶのは即位をした後でも」 「梅花様が学びたいと仰せになるのなら、わたくしが殿中省の内官に話を通しておきましょう。  王宮内でも、火紗国の言葉を読み書きできる官吏はおりましょう」  相変わらず、梅花に視線を外したまま桃苑が言う。  殿中省とは、王や王妃といった内廷で暮らす王族の、衣・食・住を支える部署である。内侍省に属する桃苑にとって、殿中省に話を通すことは珍しいことではないのだろう。顔見知りの内官が幾人かいても不思議ではない。 「お願いできますか」  この先、異国の言葉を読み書き出来た方が良いのは確かである。白桜を支えるのならば尚のこと。 「梅花様がお望みならば」桃苑が跪き頭を垂れる。 「ではそのようにお願いします」梅花の声に、桃苑は短く返事をし立ち上がる。  桃苑は立ち上がると、広げていた地図を片付け後ろの壁に凭れ掛ける。 「お茶を淹れて参ります」そう言い残し、宮を一旦後にする。  茶が入った湯飲みを手に戻ってくると、二人の前に湯飲みを置く。 「では、わたくしは地図を秘書省まで返して参ります」  桃苑は揖礼を捧げ、地図を抱え再び宮を後にする。  宮には白桜と梅花、二人のみが残る。 「暫く戻っては来ぬだろうな」湯飲みの口縁に口を付けると、白桜が言う。 どうしてそう言い切れるのだろう―。  同じく湯飲みに伸びた手を止め、梅花が首を捻る。 「別に秘書省に地図を返しに行くのは、今でなくても構わない。恐らく、私と梅花を暫く二人きりにさせる為の口実だ」  云わば、中々会えない二人の為に、桃苑なりに気を遣ったということだろう。  梅花は背後を振り返る。  この薫風宮は秘書省の目の前にあり、本来なら大して時間は掛からないはずである。しかし、戸の外から人の気配はない。 「白桜様」白桜に視線を戻すと、声を掛ける。 「妓楼への文の件、了承して頂きありがとうございます」 「蕾柚から聞いたか」白桜の問いに、大きく頷く。 「その文が、そなたの支えとなるのならば…と思ったまでだ」  白桜は微笑むと、菓子に手を伸ばす。 「お心遣い感謝いたします」梅花は揖礼を捧げる。  二人は茶菓子をつまみつつ、様々な話に花を咲かせる。  梅花が入内してからのこと、政務のこと、そしてこの国の未来のこと―。  会えなかった時間を埋めるように。  白桜は梅花の話に耳を傾け、梅花もまた白桜の話に耳を傾ける。宮には、つかの間の穏やかな時間が流れている。
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