春光

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春光

 梅花が入内して、早一年が経とうとしている。  桃の花が綻び、日差しに暖かさを感じる季節である。  年が明けてから内廷では、即位の為の準備が着実に進められていた。梅花は、即位後に生活する月旭宮に移るために、荷物を揃えている。  梅花の即位に合わせて、月旭宮にて春玲が使用していた家具は全て撤去され、新しく寝台や文机、更には鏡台や銀鏡など家具が運び込まれていた。  王妃として職務を行う部屋と、寝台など私的な部屋の境には帳が掛かり、更に寝台の前にも桜色の地に、梅と桜の花が金色の糸で刺繍された帳が掛かっている。  それだけではない、梅花の元には桃苑をはじめとした内官や、衣服や飾り物の作成を所管する少府監(しょうふかん)の官吏、衣服や飾り物の管理を行う尚功(しょうこう)尚服(しょうふく)の女官らが、ひっきりなしに訪れる。  それらは、即位の儀やその後の生活について、梅花と意見を出し合うためである。とは言え、梅花自身も祭儀やその後の生活については、想像の範疇を超えてはいない。そのような想像の範疇を補うのは、蕾柚や白桜の助言である。  白桜は桜月の政務を手助けしつつ、内廷の女官や内官の数を調整に手を付けている。  桜月が退位し、行宮に向かえば内廷には白桜と梅花、ふたりのみが残る。故に、今の女官や内官の数では手持無沙汰になる。更に言えば、女官や内官の数が減ると当然、その者たちの給金や生活するための金子が削減できる。  削減した財政を、民の為に回せないか……。白桜は、内廷の簡略化を進めている。  白桜も梅花も、女官や内官をぞろぞろと引き連れて歩く柄ではない。白桜には桃苑が、梅花には蕾柚がそれぞれ付いている。  白桜が進めていることは、それだけではない。 「梅花に内官を付けては…と考えている」  白桜はその日の晩薫風宮にて、桃苑にそう切り出す。 「内官を……」桃苑は呟きそのまま黙りこくる。 「梅花には現在、蕾柚が付いてくれている。だがこの先、王妃に即位すれば危険に晒すやも知れぬ。故に、護衛の為に一人付けては…と。  蕾柚は女官ゆえ心許ない。それに、彼女は武術に関しては不得手であろう」 「欲を言えば、白桜様がお傍で護りたいのではございませんか」  桃苑はお見通しだと、言わんばかりの口振りである。  桃苑の物言いは正しい。本音を言えば、すぐ傍にいて護れたら…と思っている。だが、白桜の立場上それは困難なことである。  何も反論せぬ主に、桃苑はふっと笑う。直ぐ、表情を引き締める。 「護衛の為ならば、武術に秀でた者が良いでしょう。  内侍省の宮闈(きゅうい)局の者で、一人心当たりがあります。飄々として、掴みどころのない者ではありますが、武術の腕は確かでお役に立つかと存じます」  桃苑は揖礼を捧げる。  宮闈局とは、内廷を警備する部所である。  宮闈局に属する内官ならば、武術に関しても問題ないだろうと白桜は思案する。  白桜が桃苑に話してから三日後の昼間には、桃苑が推挙した内官を連れ、翠雨宮に訪れていた。  梅花の前で、一人の内官が跪き頭を垂れている。  梅花の横には蕾柚が控え、他の女官は背後に控えている。 「白桜様の命により、本日より貴女様の護衛を務めさせて頂きます。  内侍省の内官・杏賀(きょうが)と申します。(きょう)とお呼びください」  内官を付けるという話も、護衛の話も、どちらも初耳で梅花と蕾柚はお互い顔を見合わせる。  二人の反応を見た白桜が、徐に口を開く。 「主である梅花の承諾得ず進めて申し訳ない。  だが、即位すれば危険に晒すこともあるやも知れぬ。故に、護衛の内官がいても良いだろうと、桃苑に頼んでいた」  白桜は背後で控えている桃苑を、ちらりと見やる。 「左様でございます。  杏賀は飄々として掴みどころのない者でございます。しかし、武術に秀で腕は確かです。故に、梅花様のお役に立つかと存じます」  梅花は桃苑と白桜を見、目の前で頭を垂れている杏賀と名乗った内官を見る。  小さく息を吐くと、口を開く。 「面を上げなさい」静かなそれでいて涼やかな声。  杏賀は短く返事をし立ち上がる。  白桜も梅花も武術に秀でていると、桃苑から耳したからか骨太の腕っぷしの強い者だろうと、勝手に想像していた。  しかし、目の前の内官は桃苑や白桜より、少しばかり長身で、ほっそりとした体格である。白桜としては刀や弓矢より、書物を持たせた方が似合うだろうと思っている。極めつきは、中性的な顔つきと温和な目付きの中に、冷ややかな視線が混じる。  歳は白桜より、二・三上だろうか。  静と動が同居しているー。そんな印象を持つ者である。  杏賀を見つめたまま何も言わぬ梅花に、白桜はおずおずと口を開く。 「不満なら他の者を……」  白桜の言葉に、大きく頭を振る。 「構いません。  杏、よろしくお願いします」  梅花は微かに笑う。  杏賀は揖礼を捧げる。  薫風宮に足を進めつつ、白桜は先ほどの梅花と杏賀とのやり取りを、思い出していた。梅花の静かな声音を聞いて、彼女が変わったと思ったのだ。  勿論、悪い方ではなく良い方に。主として妃として、強く逞しくなったと思う。 「強くなったな……。梅花は……」  思わず独りごちる。 「元々、強いお方ですが、今は白桜様に追いつこうと必死なのですよ。  王妃として釣り合うように」  白桜の独り言を耳にした桃苑が、そう漏らし遠くを見る。白桜は「そうか」答え、目を細める。  初鳴きの鶯の声が二人の耳に届いた。  桜の花が綻びはじめている。寒さが緩み日に日に暖かさが増している。  この日、桜月が行宮に出立することになっており、梅花と白桜が見送りの為外廷に来ている。暖かな日差しが降り注ぎ、まさに出立に最良の日である。  白桜の隣に梅花が寄り添い、その背後に桃苑、蕾柚、杏賀が控えている。桜月は白桜らと対峙し長年、己の居場所であった金烏殿を見つめる。  麝香豌豆の毒に侵されて一年。訓練が功を奏し、今では杖を使わずとも歩けるまでに回復した。  桜月の背後には、輿が用意され行宮まで付き添う官吏と内官、更には女官が出立の時を待っている。 「白桜。何故、この国の王族の男子には“桜”の文字が名に入るか分かるか」  思ってもいない問いに、白桜は視線を彷徨わせる。息子のその姿に、表情を引き締める。 「桜の幹は太く根は深い。それでいて、何千何万の花を咲かせる。一国の王も、桜樹の如く太く深い政で、何千何万の民を支えねばならぬ。故に、桜という文字が入るのだ」  初めて己の名の意味を知り、白桜は表情を引き締める。 桜樹の如く太く深い政―。  桜月の言葉が、ずっしりと重みを持って胸にのし掛かるような気がする。己は、これからそのような政が出来るだろうか―と。 「白桜」桜月は息子の表情を気にせず、再度名を呼ぶ。 「この国と国の民をよろしく頼む。  お前の思う政をすれば良い。勿論、民や王妃の声を聞くことが大前提だが。  落ち着いたら行宮に顔を出せ。梅花と共に。大したもてなしは出来ぬが」  白桜の腕を強く叩く。思ったより強い力に、白桜は腕を擦る。 「承知しております」白桜が笑みを浮かべ答える。桜月も笑みを浮かべ、白桜の頭を二・三度撫でる。思ってもいない行動に、白桜は戸惑いたじろぐ。  数え二十一の息子の頭を撫でる父親もどうかと、白桜は思う。しかし、恐らく桜月なりの叱咤激励なのだと思案する。  桜月の視線が梅花に移る。視線を向けられた瞬間、梅花の背が自然に伸びる。 「梅花。  白桜のこと、そして内廷のことを頼む。今、白桜を一番理解しているのはそなただろう。  どうか、こやつの味方に支えになって欲しい。王妃としてだけではなく妻として」  桜月の思いに応えるように、梅花は白桜と視線を合わせ互いに微笑む。仲睦まじい二人の様子に、桜月も莞爾を浮かべる。    桜月の視線が桃苑に向く。 「桃苑も白桜のことを頼む。そなたは白桜のことを実に良く見いている。十五の頃からずっと。故に、これからも白桜の手となり足となり、助けてやって欲しい。  王は孤独だ。気心知れたそなたが傍にいた方が、白桜も気が楽になるであろう」 「誠心誠意お仕えいたします」桃苑が揖礼を捧げる。  名残惜しむように、外廷を見回す。桜月の背後から、内官が歩み寄り「そろそろお時間でございます」と、声を掛ける。  桜月は微かに頷き、白桜らに揖礼を捧げる。そして背を向ける。 「父上!」不意に白桜が背に向かって声を張る。白桜の声に桜月は振り返る。白桜は何か言おうと口を開くが、寂しさ、不安、決意…様々な感情が渦を巻き、言葉は胸に溜まるばかりで上手く言えず結局口ごもる。  白桜の姿に、分かっていると言わんばかりに、笑みを浮かべ何度も頷く。  桜月は再び背を向け、輿に向かって歩き出す。桜月が輿に乗りこむと、白桜らは再拝稽首で送り出す。  輿の後ろで付き添っている、女官や内官また衛尉の官吏の足音が小さくなり、城門が閉まる音がする。その音を合図に、白桜らは顔を上げ立ち上がる。  当然だが、そこには桜月の姿も輿に付き添う女官らの姿もない。ただ、春一番かと思う程の強い風が吹いている。  桜月という人物が去った外廷は、ぽっかりと穴が開いたような、寂寥感が残っている。  桃苑が白桜に視線を向ける。 「寂しくなりますね」白桜らの気持ちを、代弁したのは桃苑である。白桜は「あぁ」と、低い声で答えた。    桜月がいなくなった外廷を、梅花は表情を引き締め眺めていた。瞳に決意には決意が宿る。 いよいよ―。 私たちが、この国を政経し動かしていく―。 この国の民の生活が、弥栄なものになるように―。  そう思えば思う程、胸の鼓動が大きくなっていくような気がする。 「いかがなさいましたか」あまりに、鋭い視線で前を見つめていたからか、それとも梅花が微動だにしないからか、気が付くと蕾柚が梅花の顔を心配そうに覗き込んでいた。 「いいえ。なんでもありません。  戻りましょうか」  梅花が笑みを浮かべ、朗らかに言う。  即位の儀を明日に控え、王宮内は内廷・外廷関係なく喧騒に包まれている。  既に梅花は翠雨宮から月旭宮に移っている。  梅花は寝台に腰を下ろし、数日前に届いた芽李月からの文に目を通している。寝台の背後に備え付けられた障子窓が、半分ほど開いている。麗らかな春光が差し込み、満開の桜樹を照らしている。  数日前には、尚食の女官らが梯子を使い、桜樹に登り桜の花を摘んでいた。恐らく、塩漬けにするのだろう。  芽李月は時折、梅花に向けて文を出してくれている。認められているのは、些細な事柄だが此度の文はそうではない。  芽李月が宮妓として教坊に入るという。  それ自体は、梅花が妓楼にいた頃から囁かれていたこと故、それ程驚いてはいない。ただ、妓楼の稼ぎ頭である芽李月が、いなくなることで月花楼はどうなるのか……。  芽李花や華琳らは、今まで通りの生活が出来るのか……。    自分が妓楼と関りが無くなったとはいえ、家族とも呼べる人たちの変化に、身を案じる。 どうか、彼女らの行く末が棘の道ではないように―。 白桜様が行う政策が、妓女や妓楼を助けるものであるように―。  今はそう願うしか術はない。 「ただいま戻りました」出入り口から、蕾柚の声がする。 「おかえりなさい」と声を掛ける。  蕾柚は明日、梅花が身に纏う襦裙を、尚服まで取りに行っていた。    蕾柚が襦裙を抱え、寝台の帳を潜る。 「失礼いたします」と声を掛け、寝台の上に襦裙を広げる。  若苗色の衣に牡丹色の裙。更には、金春色の披帛。衣の袂と裙の裾、披帛にも禁色の桜色で桜の花びらが刺繍されている。  更には、胸の辺りで締める帯と裙には、金色の糸で国花の牡丹の花が刺繍されている。  衣と裙どちらも、天鵞絨の光沢があり一見するだけで、上等な絹の生地だと見受けられる。    梅花は、恐る恐る襦裙に触れる。滑らかな感触が伝わる。 「お気に召しましたか」蕾柚が声を掛ける。  梅花は硬い表情のまま頷く。  こんな上等な襦裙身に纏ったことはおろか、目にしたことすらない。  これから自分が立つ身分を、まざまざと見せつけられたようで、重圧がのし掛かる。梅花は自分が身に纏っている裙を握り締める。 「緊張されていますか」蕾柚が寝台に腰掛け優しく問う。  梅花は微かに頷く。蕾柚の声音は常に優しく穏やかだ。今日のような、春の麗らかな陽だまりのような声音だと、梅花は常に思っている。  蕾柚は梅花の感情を肯定するように、何も言わず微笑み頷き返す。  その姿に、梅花は表情を緩める。  蕾柚は寝台の上に広げた襦裙を手にすると、衣桁に掛ける。 「ただいま戻りました」杏賀が戻って来たのは、陽が傾き西日が差し込む時刻である。  元々、宮闈局に属していたこともあり、明日の為に衛尉の官吏や宮闈局の内官らと、警備や護衛について話し合っていた。 「梅花様にお話したき儀がございます」杏賀が寝台の帳の前で、跪き頭を垂れ声を張る。  杏賀は蕾柚とは違い、梅花に対して一本の線を引いているかのように思う。どれだけ梅花や蕾柚が進めても、寝台の帳の奥には足を踏み入れない。  それが内官という立場故か、彼の性格故か釈然としない。 「やはり、明日は衛尉の官吏らと共に、外廷の警備に就くことになりました。  故に、お傍でお守りすることは難しいだろうと存じております。大切な日に、お傍を離れることになり、申し訳ございません」  声音から陳謝の意が伝わってくる。  一本線を引いてはいるが、梅花に対して忠誠心が強い人物である。  杏賀に即位の儀当日の警備について、協力の要請があった時から、こうなるのでは…と予想していた。 「構いません。  護衛には他の内官や武官も就くでしょう。  それに此度の推挙は、貴方の武術の腕を見込んでのことだと、私は考えています」  杏賀を明日の警備に推挙したのは、桃苑だろうと予想している。  朗らかな口調に、杏賀が纏っている硬い雰囲気が緩む。  夜も更け、明日は早く起きなければと、寝台の上に横になる。しかし、明日のことを考えれば考える程、目が冴え眠れなくなる。  気晴らしに夜風に当たろうと、寝台を降り帳を潜る。  職務をする部屋まで足を進めると、明日の支度をしていた蕾柚がはっと顔を上げる。 「眠れませんか?」蕾柚の問いに頷く。 「目が冴えてしまって。  夜風に当たろうかと」  梅花の言葉に、蕾柚は「承知いたしました」と答え、自室の帳を潜る。  自室から戻って来た蕾柚は、淡紅色(たんこうしょく)の羽織と、火が入った行灯を手にしていた。 「桜の季節とはいえ、まだ外は寒うございます。夜風で、お身体が冷えるといけません」  そう言いつつ、梅花に羽織を掛ける。 「ありがとう」礼を言い、羽織に袖を通す。卯の花色の夜着に、淡紅色の羽織が良く映える。  宮の外に出ると、見張りをしていた杏賀が揖礼を捧げ跪く。  梅花が夜風に当たる旨を伝えると、「お供します」と声を掛ける。梅花は微かに頷くと、石段を降りる。  石段の両脇にある篭松明が煌々と燃えている。空には満月が浮かび上がり、月明りが闇を照らす。  明日の準備に追われ、女官や内官が内廷外廷を縦横無尽に行き来している。  忙しない空気の中、自分が夜風に当たるという自由気ままな理由で、ここにいるのが後ろめたいような気分である。  梅花は暫く、女官や内官らの様子を眺め、薫風宮の裏にある桜樹に向かって足を進める。桜が満開のこの時期、今日のような満月の夜には、月明かりが桜の花びらを浮かび上がらせ、花明かりという表現が良く似合う。  桜樹の傍まで来ると、梅花は足を止める。樹に軽く背を預けている人の姿が目に入った。先客である。  梅花は声を掛けても良いものか、それとも一人にした方が良いのか…逡巡する。    梅花の視線に気づいたのか、客人がこちらを向く。  樹に凭れていたのは他でもない白桜である。 「梅花」柔らかなそれでいて甘い声音で、名を呼ぶと手招きをする。蕾柚から行灯を受け取る。蕾柚と杏賀をその場で制して、歩みを進めた。
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