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桜華
梅花は白桜と並び樹に凭れる。白桜が腰を下ろし、梅花に視線を向ける。座るようにと、視線で諭され隣に腰を下ろす。梅花は手にしていた行灯を、白桜と自分の前に置く。辺りがぼんやりと明るくなる。
どちらともなく手を繋ぎ、満月を見上げる。温もりが伝わり、梅花は小さく息を吐く。
「いよいよだな……」白桜が徐に口を開く。梅花も「ええ」と相槌を打つ。
明日、即位の儀が済めば二人は晴れて夫婦となる。お互いが想いを伝えて約四年。ようやく、想いが実を結ぶ。
また沈黙が満ちる。しかし不思議と、この沈黙が苦痛ではない。
「ところで杏賀はどうだ。そなたの元で役に立っているのか」
不意に白桜が尋ねる。梅花はどう評価すれば良いのか、暫し思案し口を開く。
「桃苑様が仰せになった印象とは、些か違った人柄だと思っております。
飄々とした者ということから、自由気ままな人柄かと思いましたが、実際は忠誠心が強く無駄な動きの少ない、誠実な人柄だと存じております。
あまり多弁ではない故か、つかみ所のない人柄であり、蕾柚とは違いわたくしに対して一本線を引いているようにも見受けられますが」
梅花の杏賀に対する評価に、白桜は何度も頷く。
主の前とそれ以外とでは、印象が違うのは当然である。恐らく、同じ内官の桃苑の前では、杏賀が飄々とした人柄に映るのだろう、と白桜は思案する。
「短い間で良く見ているのだな……。杏賀だけではなく蕾柚のことも」
感心したように言う。
「蕾柚とはもう一年の付き合いですし……。それに、杏賀の件はあくまで今までの印象を話したまででございます」
「にしては、二人を信頼しているようだが?」
白桜の茶化すような口振りに、梅花はどう答えれば良いのか分からず口ごもる。
確かに、二人とも梅花を主と慕ってくれている。梅花も二人のことを、頼りにしている。それが、信頼かと言われると別のことのように思う。
白桜は梅花の反応に、肩を揺らし小さく笑い声を上げる。
笑いが収まると、白桜が静かに話始める。
「杏賀がそなたと線を引いているのは、勿論忠誠心もだろうが内官だから、ということもあるだろう。内官と妃では、あまりに立場が違う」
今度は梅花が何度も頷く番である。
内官すなわち宦官は、王宮内では卑しい存在だと考えられている。故に、妃の前では自分の存在を視界に入れぬように、視線を合わせず時には跪き頭を垂れる。
恐らく、この風潮を変えるのは難しい。
話題を変える。
「妓楼から文が届きました。
芽李月さんが教坊に入られるとか」
今度は梅花が静かに話始める。
「あぁ。こちらにも、同じ旨の文が来ている」
芽李月の文にはそのような旨は、認められてはいなかった。梅花は目を瞠る。
「あの方が、月花楼を去った後、妓楼はどうなるのでしょう。芽李月さんは、月花楼一の稼ぎ頭です」
梅花は胸に引っ掛かっている杞憂を吐露する。
「もはや、私が杞憂する立場ではないのでしょうが」
梅花は寂しげに笑う。
白桜は梅花の眼をじっと見つめ、口を開く。
「即位後、最初に法を整理するつもりだ。
法を整理した程度では、身分に関係なく平等な国にするには到底足らぬが、それでも第一歩になるだろう」
法の整理で、妓女や妓楼の悪しき風潮が、どれだけ払拭できるか未知数である。梅花にとって、白桜を信じるしか術はない。
花冷えか不意に冷たい風が吹いて、梅花は小さなくしゃみを一つすると、ぶるりと身を震わせる。
風に乗って、桜の花びらがはらはらと舞う。
そろそろ、戻った方が良いかも知れない。梅花は腰を浮かせ、近くにいるであろう蕾柚の名を呼ぼうとする。が―。
衣の袖を掴む手。振り返ると、白桜の手が梅花の衣の袖を掴んでいた。
「白桜様」驚きつつ名を呼ぶ。
「もう少しだけ付き合ってくれるか」
白桜が引き留めるのは珍しい。だが、梅花を見上げるその眼に、憂いを帯びた色を見た気がして、梅花は「構いません」と笑みを浮かべ、再度腰を下ろす。
どのみち、宮に戻っても眠れるかどうか怪しい。
梅花が腰を下ろすのを認めると、白桜が梅花をそっと抱擁する。
白桜の行動が、暖を取る為かいとおしむ感情からか、どちらもなのか判断は付けかねる。
抱擁されたことで、二人の体温が混じり、梅花は温もりに目を閉じ安堵の息を吐く。聞こえて来るのは、二人の息遣いと鼓動のみである。
「桜の季節とは言え、まだ夜は冷える。故に、もう少しこのまま」
耳元で、白桜が甘い声音で囁き、梅花の背を優しく叩く。白桜の言葉が、本心か照れ隠しか分からない。
梅花は答える代わりに、白桜の背に腕を回す。温もりを求める白桜の言動に、梅花の胸中に愛おしさが溢れる。
暫くの間、抱擁を続けていたが、梅花がそっと腕を解き身体を離す。白桜も腕を解く。
梅花は白桜の顔を、じっと見上げる。梅花を見つめる優しい瞳。だがやはりまだ、瞳に憂いの色が残っている
「何か杞憂がございますか」聞いても良いものか、逡巡したが意を決して尋ねる。梅花からの問いに、白桜は一瞬息を呑む。
梅花は白桜を安心させる為に、そっと彼の手を握る。
「これから話すことは、他言無用で頼む。
桃苑は勿論だが、蕾柚や杏賀にも」
梅花は「はい」と頷く。他言無用という言葉がでたことから、白桜が相当の覚悟をして、話してくれるのだろうと気を引き締める。
白桜は二・三度呼吸を整えると、徐に口を開く。
「この一年、父上の政務を間近で見てきて、分かったことがある。
私は、口だけで何もしていない。私の政に対する信条は、理想論いや綺麗事しか過ぎない。
政への向き合い方も、民への向き合い方も、父上と比べればまだまだだと思い知った」
「王様と白桜様では、政への取り組み方が違っても当然では……」
そもそも、別人格の国王である父親と己を比べること自体、間違いではないのか。
「違う! そうではない」
梅花の言葉を、ぴしゃりと遮る。その声は、聞いたことのない程、尖り冷淡なものである。声に梅花は思わず、表情を強張らせ身を引く。
「悪い。そなたが悪い訳ではないのに、つい怖がらせてしまった」
白桜は苦しげに息を吐く。梅花は頭を振る。
「父上が王宮を去る日、己の名の意味をはじめて知った。
桜樹の如く、太く深い政治―。私は、父上のような政務が取れるだろうか。父上のような、君主に王になれるだろうか」
声が震え始める。
白桜は梅花の胸に、顔を埋める。荒い息遣いが聞こえて来る。微かに肩が震えている。
「私は臆病だ。
この国の民を守れるだろうか、臣下を守り導くことが出来るだろうか。そして何より、愛しているそなたを護れるだろうか」
白桜は言葉を切り大きく息を吸う。
「そう考えれば考える程、王座に就くのが怖くなる。君主という重圧に、押しつぶされそうになる」
声が震え、ひゅうひゅうという喘鳴と嗚咽が聞こえて来る。梅花はどう声を掛けて良いのか、分からずただ白桜の背に腕を回し頭を撫で、幼子をあやすかのように背を擦る。
初めて見る、白桜が怯え苦衷する姿。梅花の前で、ここまで本音を吐露するのは初めてではないか。
恐らく、桜月が去ってから、一人で重圧に耐えていたのだろう。重圧に耐え、己を追い込む程、苦しんでいたのだ。
無理もない。たった数え二十一で、一国の王として民を支え、自分よりも年上の臣下を導かねばならない。故に、白桜の重圧はいかばかりかと思う。
私はなにも知らなかった―。
白桜様がここまで、苦しんでいらっしゃったことも、重圧に耐えていらっしゃったことも―。
梅花は白桜の背を擦りながら、唇を噛む。
白桜とて、泣くまいと思っていた。梅花の前では、弱さなど見せるものかと。
だが、話し始めたら最後。感情の制御が出来なくなり、荒い息を吐き嗚咽を堪えるのが、精一杯である。
いや、もしかしたら梅花だからこそ、話そうと思えたのかも知れない。
梅花の背に回した腕が痺れ、指先の感覚がない。更には、呼吸が上手く出来ず息苦しい。
梅花は絶えず、背を擦り続けてくれている。
掌の温かさに、胸の鼓動に荒い呼吸が徐々に整いはじめる。喘鳴と嗚咽が小さくなり、息苦しさが軽減し、指先の感覚が戻ってくる。
白桜はそっと顔を上げる。
顔を上げた白桜は、幾らか落ち着いたらしく、瞳に先ほどまでの憂いの色はない。
人に畏れと杞憂を感情のまま、吐露したことが功を奏したのだろう。
梅花が、杞憂した眼で覗き込んでいる。
「落ち着かれましたか?」
優しい声音に、白桜は微かに頷く。
まだ、息は上がり肩が上下しているが、先ほどまでのような、喘鳴と嗚咽はなく梅花は胸を撫で下ろす。
「取り乱して申し訳ない。柄にもないことをした」
ようやく発した声は掠れている。梅花は笑みを浮かべ頭を振ると、背を優しく叩く。
「いいえ。
わたくしも白桜様が、重圧に耐えていらっしゃることも、取り乱すほどご自分を追い込んでいらっしゃることも、何一つ存じておりませんでした。
それにわたくしも、王妃など務まるのか、内廷の主など務まるのか、そう思うております」
梅花の告白に、白桜は梅花を抱きしめる。
「二人で、自分たちなりの国を経世していくしかない。そなたと力を合わせて」
白桜の言葉に、お互い微笑み合う。
白桜は腕を解くと立ち上がる。息の乱れは既にない。
「そろそろ宮に戻る。明日は早い。
それに、桃苑が心配している」
幾ら、落ち着いたとは言え、あのまま一人で返して良いものか―。
歩きかけた白桜の背に、梅花は「白桜様」と声を掛ける。白桜が振り返る。
「お一人で平気ですか」梅花の問いに、白桜は「案ずるな」と笑った。
白桜が梅花の元を、去ったことを見計らったように、足音が近づいてくる。
「梅花様」声のする方に、行灯を向ければ蕾柚の姿が浮かび上がる。
「お戻りになりますか」問いに、梅花は頷く。
白桜に抱きしめられた、温もりがまだ残っている。
蕾柚と並んで歩く。杏賀も足音を立てず、二人の後を付いて来る。
明日の準備も目途がたったのか、内廷内を行き来する女官や内官らは疎らである。
梅花らが歩いている、先に白桜の背が見える。しっかりとした足取りに、安堵する梅花である。
行灯で照らしながら、尚功と尚寝の建物の中間を歩いていると、前から「梅花様」と声がし、内官が一人跪いている。梅花は怪訝な顔をする。
蕾柚が行灯を向けると、内官の姿が浮かび上がる。
跪いていたのは桃苑である。桃苑は梅花の姿を認めると顔を伏せる。
「驚かせて申し訳ございません。
梅花様にお話ししたき儀がございます。よろしゅうございますか」
恐らく、白桜に関してのことだろうと予想し、梅花は背後を見やる。
二人には、聞かれないほうが良い。更には、今は白桜を一人にしない方が良い。
そう判断し口を開く。
「杏。白桜様を華葉宮まで。蕾柚。先に月旭宮に戻りなさい」
梅花の命に、杏賀は直ぐに駆け出す。しかし蕾柚は、その場から動かない。
「ご心配には及びません。
梅花様はわたくしが、責任を持って宮までお送り致します」
桃苑が蕾柚を促す。蕾柚は梅花と桃苑を交互に見、桃苑に行灯を託し揖礼を捧げ宮へ足を向ける。
梅花の命に従い、杏賀は白桜を追う。
「白桜様。お供いたします」背後から声を掛ける。
白桜が足を止め振り返り、怪訝そうな顔をする。
「一人で平気だ」素っ気なく答えるが、それで引き下がる杏賀ではない。
「梅花様に命じられております。
白桜様を宮までお送りするようにと」
杏賀の言葉に、白桜は苦笑いを浮かべる。
桃苑は立ち上がり、行灯を手にする。
「歩きながら話しましょうか」
そう促され、梅花は頷く。梅花が歩き始めたことを認めると、背後に付き歩みを進めつつ口を開く。
「話とは他でもない白桜様のことです」
やはりそうか―。
梅花は表情を引き締める。
恐らく、先程の白桜の言動も見ていたのだろう。梅花の反応を待たず、言葉を紡ぐ。
「王様が王宮を去られてから、白桜様はずっと何かに怯え憂いているご様子でした。
わたくしにも何も言わず、いや言えなかったのやも知れません。ご自分の弱さなど、見せたくはなかったのでございましょう。
ですが、梅花様には怯えも苦衷も全て、さらけ出し貴女様に託された」
ここで言葉を切り一呼吸置く。慇懃に言葉を選び紡ぐ。
「わたくしが、白桜様にお仕えしてもう六年になります。
この六年の間に、一度たりとも此度のように、取り乱す白桜様を見たことはございません。梅花様ならば、本音を吐露しても良いとお思いになったのでございましょう」
やはり、先程の白桜の言動を見られていたらしい。だが、桃苑ならば白桜に問い質すこともしないだろう。
「ご存じですか、白桜様が貴女様を呼び話しかける時の声音は、実に柔らかく甘いものだと」
桃苑の指摘に、梅花は袖で顔を隠す。空気は肌寒い程だが顔が熱い。
「わたくしは、貴女様に礼を言わねばなりません。貴女様と出会う以前の白桜様は、どこか無気力で王様や王妃様が用意された道を、さして疑問も持たず歩いていらっしゃるように、わたくしはお見受けいたしました。
君主になるべきご身分も、その立場を目指すだけの環境もお人柄も、揃っているのにどこか無気力な白桜様が、ただただ歯がゆかったのでございます。
ですが、貴女様と出会って白桜様はお変わりになったと思っております。君主としての、ご覚悟が確固たるものになったというべきでしょうか。貴女様の置かれている環境をお知りになればなるほど、誠にこの国を経世し変えていくそのようなご覚悟が、芽生えたのでございましょう。
“歴史の傍観者ではなく、当事者になるべき”この言葉を、白桜様は良く仰せになっていらっしゃいます。
白桜様がここまで、お変わりになったのは間違いなく、貴女様のお陰かと存じます」
桃苑はそこまで言うと、足早に梅花の横を通り過ぎ、彼女の前で跪き頭を垂れる。
「梅花様。
どうかどうか、末永く添い遂げられますよう、いつまでも仲睦まじいお二人でありますよう、お祈り申し上げます」
桃苑の声がくぐもっている。恐らく、頭を垂れているからだけではない。
桃苑の言動に、梅花は目頭を押さえる。
「礼を言わねばならないのは私の方です。
もしあの日、桃苑様が妓楼に簪を持って来て下さらなければ、白桜様にお礼の文を届けて下さらなければ……。何より、時に私を護り時に背を押して下さらなければ、今私はここにおりません。白桜様への想いも入内も、とうの昔に諦めていたでしょう」
梅花は手を伸ばし、桃苑の肩に触れる。桃苑は伏し目がちに、顔を上げる。
梅花は泣き笑いの表情になり、口を開く。
「桃苑様。今まで、ありがとうございました。
これからも、長い付き合いになるでしょう。どうぞ、よろしくお願いいたします」
梅花は決意と感謝の意を込め、揖礼を捧げる。
風が桜の花びらを舞わせ、月が宵闇を照らす。様々な人達の思いを抱えたまま、即位前夜の夜が更けていく。
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