後来

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後来

 梅花と白桜が即位し十年が経つ。  この十年で、国が変わったと民は口にしている。  国王である白桜の“民は皆平等”という信条の元、国政が取られているからか、梅花が即位した十年前よりも、妓女をはじめ賤民に対しての風当たりが弱くなった。  都では、妓女が楽しそうに店で飾り物を選ぶ姿など、十年前には考えられなかったことである。  これは法が整理され、身分を理由に行動を制限してはならない、貴族や王族でも罪を犯した場合は、身分に甘んずることなく裁きを行う文言が含まれた、法が整備されたことが大きい。  とは言え、身分の隔たりが完全に無くなった訳ではない。  幾ら法が整備されたとは言え、法を掻い潜る輩も当然存在する。勿論、根強く残る風潮が完全に払拭できた訳ではない。  その度に、白桜はまだまだ道半ばだと痛感している。  梅花も王妃としての職務の傍ら、白桜の政務を支えている。  通常、王妃が政に進言することはない。王妃はあくまでも内廷の主。しかし白桜は、これまでの慣習を改変させ積極的に、梅花の意見を政務に取り入れている。  それは、梅花が身をもって、国の不条理や風潮に晒されてきたからだろう。  季節は寒梅の時期であり、人々の吐く息は白い。王宮内に植えられている、寒梅が花を咲かせ臣下をはじめ、女官や内官らを楽しませている。    手足の(かじか)む程の冷たい外廷の蒼穹に、金属がぶつかる音が響く。  一人は、数え九つ程の紺色の深衣を身に纏った男児あり、もう一人は花緑青(はなろくしょう)色の深衣を纏った内官である。  男児の深衣の袂には、禁色の桜色の糸で桜の花の刺繍が施されている。内官の深衣には、一重梅色の糸で梅の花の刺繍が施されている。  男児は内官から、剣の手ほどきを受けている。当然、二人が使用しているのは刃が付いてない剣である。  一瞬の隙を突かれ、男児が均衡(きんこう)を崩し、尻餅をつく。手にしていた剣が、軽い音を立て石畳の上を転がる。尻餅をついた拍子に強打したらしく、男児が一瞬顔を歪める。  内官は、男児の鼻先に刃先を突きつける。 「降参なさいますか。桜颯(おうらん)王子」  内官・杏賀は桜颯に向かって得意げに言う。  梅花と白桜の嫡男・桜颯は、両親とは違い書物を読むより、活発で身体を動かす方を好む人柄である。梅花としては、活発過ぎる桜颯のことが目下の悩みの種である。  桜颯の息は上がっており、薄っすら汗ばんでもいるが、杏賀は涼しい顔のままである。息が整うと、桜颯は笑い声を上げる。この歳の子どもらしい笑い声である。 「やっぱり、杏には敵わないや」  悔しそうな素振りを見せず、桜颯は楽しげに言う。まだ、変声期前の高い声。 「お褒めに預かり光栄です」  誇らしげな声。  桜颯は杏賀のことを杏と呼ぶ。  恐らく、母であり主である梅花がそう呼んでいるのを聞き、自然と呼び名が定着したのだろう。  桜颯は立ち上がる。尻餅をついたからか、深衣の裾に汚れが付いている。 「お怪我はございませんか」  杏賀は剣を置き、桜颯の深衣の汚れを払う。 「ありがとう」桜颯は大きく頷く。  正殿の扉が開く音が聞こえ、杏賀と桜颯は揃って正殿に視線を送る。  正殿から朝議を終えたばかりの白桜が、側近の内官である桃苑をはじめとした内官や、護衛の為の武官を引き連れて姿を現す。  白桜は正殿の階を降りながら、桃苑と言葉を交わす。 「父上!」白桜が階を降り切ったのを見計らい、桜颯が弾んだ声を上げ剣を手に駆け出す。杏賀は刹那、苦い顔をするが直ぐに後を追う。  桜颯が手にしているのが、幾ら刃が付いていない剣だとしても、万が一ということもある。桃苑がとっさに、白桜を後ろに下がらせ自分が盾になる。 「桜颯王子」桃苑が駆けてくる桜颯に向かって、静かに名を呼び静穏を諭す。  桃苑らの前で立ち止まり、再拝稽首を捧げる。  面を上げ立ち上がると、桃苑が膝を折り桜颯と目線を同じにし、真剣な表情で桜颯を真っ直ぐ見つめ口を開く。 「良いですか。  幾ら刃が付いていないとはいえ、剣を手にしたまま走ってはいけませんよ。  お父上だけではなく、桜颯様ご自身もお怪我をなさるかもしれません。  桜颯様は聡いお方故ご自分の行動が、どれ程危険なことかお分かりになるかと存じます」  声を落とし淡々と諭す。  桃苑が誰かを叱るとき、決して声を荒らげることはない。ただ、淡々とものを言う。だが、桜颯としては𠮟りつけられるより、淡々と諭される方が声音が身に沁み、怖いと思う。  こうした理由か、桜颯は桃苑に対して苦手意識を持ち、杏賀に良く懐いている。  桜颯は視線を落とし、消え入りそうな声で「申し訳ありません」と陳謝する。桃苑は軽く息を吐き、表情を緩める。  桃苑が立ち上がると、今度は白桜が膝を折り視線を合わせる。 「剣の稽古をしていたのか」  白桜からの問いに桜颯は大きく頷く。 「なかなか、杏には敵いません」  背後に控えている、杏賀をちらりと見て言う。  息子の正直な告白に、白桜は笑い声を上げ「そうか」と言い、慈愛に満ちた表情で頭を撫でる。  この素直さは、梅花に似たのだろうと白桜は日頃から思っている。  桜颯は手にしていた剣を、白桜に差し出す。白桜は何かと首を傾げる。 「父上もなさいますか」眼を輝かせて尋ねる。どうやら桜颯の眼には白桜が、武術に興味があると映ったらしい。 「いや。父は良い」白桜は苦笑いを浮かべる。 己が武術より、書物を読んでいる方が向いていると、知ったのはいつだろうか―。 「杏賀の言うことを良く聞き、修練に励むと良い」  白桜としては、いづれこの国の君主となるであろう桜颯には、武術の腕があった方が良いと考えている。  桜颯が「はい!」と覇気のある返事をすると、白桜は立ち上がる。  杏賀がそろそろ宮に…と、思案しかけた刹那。内廷と外廷を繋ぐ戸の方角から、玉砂利を踏む音と歩揺と佩玉の音がし、杏賀と桜颯は揃って振り返る。  この王宮内で、歩揺と佩玉の音をさせて歩いてくるのは、一人しかいない。  こちらに向かい歩いてきた人物を見、桜颯の表情が強張る。 「母上」桜颯のか細い声。  歩いて来たのは、他でもない梅花である。  梅花は藤色の衣に一斤染(いっこんぞめ)の裙を身に纏い、肩から薄桜色の披帛を流している。衣の胸の辺りと、裙の至る所に金の糸で、牡丹の刺繍が施されている。更には、衣の袂と裙の裾には桜の花の刺繍が映える。    梅花は薄緑色の衣に空色鼠(そらいろねず)の裙を合わせた、蕾柚はじめ数人の女官を引き連れて、桜颯らの元まで歩いてくる。裙には杏賀の深衣と同じく、一重梅色の糸で梅の花が刺繍されている。  女官の中には普段、桜颯に付いている女官の姿もある。 「王妃様」杏賀や桃苑ら内官が、一斉に跪き頭を垂れる。  梅花は桜颯らの前で、立ち止まると微笑み揖礼を捧げる。しかし、顔を上げた時には、笑みを消し身を屈め桜颯の両肩を掴み、真っ直ぐ鋭い視線を向ける。桜颯の梅花が姿を現した際に強張っていた表情が、更に強張る。  まるで、これから叱られることを分かっているかのように。 「桜颯。外廷は王様が政をし、臣下や官吏らが国を動かす場です。決して、貴方の遊び場でもなければ、ましてや剣を振り回して良い場でもありません。何度言えば分かりますか!  来年には桜颯も数え十。そろそろ、物事の善悪が分かる頃だろうと母は思っています。  剣の稽古をすることは構いません。ですが、やるのならば外廷ではなく内廷でなさい。良いですね!」  声を低くし、静かにだが怒気を含んだ声音で、桜颯を叱りつける。 「杏! 貴方もですよ」当然、怒りの矛先は杏賀にも向く。  梅花の声に、杏賀の肩がびくりと揺れる。 「申し訳ございません」桜颯と共に叱責を受けていると、杏賀は梅花のもう一人の子どもになったかのような感覚になる。  梅花の容赦のない物言いに、白桜は苦笑いを浮かべる。  父親ならば、このような時に何か言葉をかけてやるのが筋だろう。しかし子どもたちの躾に関しては、梅花に一任していると言っても過言ではない白桜には、口出しをするのは憚られる。 「ごめんなさい」素直な謝罪に梅花は、笑みを浮かべそっと頬を撫でる。  梅花としては、子どもたちが王座を継ぐにせよ、継がぬにせよ物事に関する善悪の分別は、付けて欲しいと思っている。  梅花は立ち上がり、白桜と視線を合わせお互い微笑み合う。  叱られたことで、肩を落としている桜颯に杏賀が「そろそろ内廷に戻りましょうか。桜颯王子」と笑いかける。  桜颯はこくりと頷く。 「桃苑」未だ跪いている桃苑に、白桜が声を掛ける。桃苑は静かに、白桜からの命を待っている。 「杏賀と桜颯と共に、先に内廷に戻って欲しい。  暫く、王妃と二人きりにさせて欲しい。話すことがある」 「承知いたしました」桃苑は立ち上がり、杏賀と桜颯に視線を向ける。  白桜の発言に、気を利かせたのか梅花と白桜それぞれの背後に控えている、内官や武官、女官が揃って後ろを向く。  揖礼を捧げ、背を向ける桜颯と杏賀、そして桃苑を見ながら、白桜はふと尋ねる。 「壽桜(すおう)はどうしている」  梅花と白桜の次男・壽桜は数え七つ。壽桜は兄の桜颯とは違い、内向的で書物を好む物静かな人柄である。壽桜の書物を好み、心優しく正義感の強い部分は、白桜に良く似ていると梅花は常に思っている。 「宮にて日課の書き取りの修練をし、書物を読んでおります。  午後からは“父上と碁を打つ”と、楽しみにしておりましたよ」  梅花の朗らかな返答に、白桜は笑みを浮かべ「あぁ」と相槌を打つ。  日頃、政務に追われている白桜にとって、たまに息子たちと遊ぶ時間は、父親としてかけがえのないものである。  父親として、息子たちに甘い部分があることは重々承知している。だが親になって、桜月の子どもを甘やかしたくなる気持ちが、手に取るように分かる。  梅花には白桜が、国王である前に二人の息子たちが可愛くて仕方がない、子煩悩な父親に見える。  碁を教えたのは、白桜ではなく梅花である。外で遊ぶことを好まず、書物を読んでばかりの壽桜に少しでも、他人と関わる術になればと考え二年ほど前に基礎を教えた。  趣味嗜好に合ったのか、元々負けず嫌いな性格も手伝ってか、着実に腕を上げ時折白桜や桃苑との手合わせを楽しみにしている。 「桜颯様。内廷にお戻りになったら、国史の続きを学ばなければなりませんよ」  内廷に向かいつつ、桜颯にそう声を掛ける杏賀の声が聞こえる。杏賀の進言に、桜颯が露骨に嫌そうな声を返す。  不意に桜颯が足を止める。どうやら、そうまでして宮には戻りたくないらしい。子どもらしい、精一杯の抵抗である。  二人のやり取りに、梅花は口元を衣の袂で隠し、肩を震わせる。宮で側仕えの女官と、書き取りをし書物を読んでいるであろう壽桜のことを思い浮かべる。 「わたくしとしては、桜颯も壽桜も兄弟仲良く遊んだ方が…と思っておりますがなかなか……。  お互い、たった一人の兄弟なのですから」  梅花の胸中に白桜は頷く。  桜颯も壽桜も決して仲が悪い訳ではない。だが、趣味嗜好の違いか性格の違いか、兄弟一緒に遊ぶという姿をあまり見たことがない。  白桜が口を開く。 「幾ら兄弟とは言え、桜颯と壽桜は趣味嗜好や人柄が正反対故、難しいこともあるだろう。だが、壽桜も桜颯を兄として慕っている。また、桜颯も壽桜の前では兄として、頼もしい姿を見せてくれる。活発な性格故、母である梅花には頭の痛いことだろうが」  白桜は言葉に、梅花は静かに頷く。  王宮内で流れた幽霊話に、桜颯と壽桜が興味を持ち好奇心だけで、女官や内官を付けず内廷を抜け出したのはいつの話だったか……。  子どもが産まれてから、二人の会話はどうしても子どもたち中心になる。二人にとって、子どもたちのことを話すのは、即ちこの国の未来について話すことにも繋がる。 「梅花」ふと白桜が名を呼ぶ。 「そなたは子どもたちのことを良く見ていると、常に思っている。  王妃としての職務もある故、忙しいだろうに実に良く根気強く躾ていると」  思いがけない称賛に、梅花は視線を彷徨わせる。 「突然、何事ですか。  なにか、下心でもおありですか」  梅花は白桜に詰め寄る。 「違う!」反論の為、つい声が大きくなる。 「日頃の感謝を伝えようと思ったまでだ」  気まずそうに視線を逸らす。白桜のその姿に、梅花は微笑む。 「私はそなたを、王妃に据えて良かったと思っている。  そなたが、この国の王妃で良かったと」 本当に、今日はどうしたというのだろう―。  白桜は決して、口数が多い人ではない。特に、梅花に対しての愛情表現は言葉よりも、行動で示そうとする節がある。  梅花は眼を瞬かせる。 「即位をして十年。ずっと、言わねばと思っていた。  この十年。そなたには苦労を掛けたことも、時に王妃の座を疎ましく思ったこともあったであろう。しかしそなたは、私を信じて泣き言ひとつ言わず、付いてきてくれた。今、私が国王として国を経世していられるのは、そなたのお陰だと思っている。  覚えているか。都で梅花とはじめて会った日。あの日も、快晴の空の下寒梅が咲く、まさに今日のような日であったな」  言葉を選びながら紡ぐ。  梅花はこくりと頷く。 「覚えております。いいえ。忘れることは出来ないでしょう。あの時のことは、今でも昨日のことのように鮮明に覚えております。  “民は皆平等のはずだ”と、臆することなく啖呵を切って下さった頼もしい声も含めて。  わたくしもあの時、助けて下さったのが白桜様で良かったと、思っております」  笑みを浮かべ朗らかに言う。 「梅花」いとおしそうに、名を呼ばれたかと思うと、不意に背後から抱き締められる。  この十年。白桜の梅花に向けられる、目線や声音や触れる手つきの優しさは、何も変わっていない。  時折、温もりを求める為の行動も。 「寒うございますか」  横目で白桜の顔をちらりと見つつ、前に回された腕に触れ優しく問う。背に白桜の温もりと、心臓の鼓動を感じ頬が緩む。 「それもあるが……」耳元で白桜が囁く。 「が……?」梅花が続きを諭すと、白桜が腕に力を込める。まるで“言わずとも分かっているだろう?”と、言わんばかりに。  幾ら側に付いている、内官や武官、女官らは後ろを向いてくれている。だが、外廷には多くの臣下や官吏が行き来している。当然、梅花と白桜の抱擁は臣下や官吏らの眼に入っている。  仲睦まじいと言えば聞こえはいいが、この状況は外廷を軽率に捉えていると、思われないか。更に言えば、桜颯や杏賀、桃苑の視線も気になる。  梅花は自分が置かれている状況が、気まずくなり口を開く。 「皆に見られてしまいますよ」  若干声を低くし咎める。 「構わない。とやかく言いたい者には、言わせておけば良い」  梅花の咎める声など、耳に入っていないらしく白桜は平然と言う。梅花は小さく息を吐く。  二人の抱擁が桜颯には、まだ見せるのは早いと判断した杏賀によって、桜颯は目隠しをされている。 「父上と母上は一体何を話して……」  そこまで口にした桜颯を、杏賀は自分の方に向き直らせる。 「王様と王妃様には、時折二人きりの時間が必要なのですよ」  杏賀がそう諭す隣で、桃苑は呆れた表情をする。 「それはどういう……」納得など微塵もしていない桜颯に、桃苑が膝を折り口を開く。 「桜颯様が将来、お父上やお母上よりも大切な人が出来たら、杏賀の言葉の意味がきっとお分かりになるかと存じます」  桃苑の言葉に、桜颯が「ふーん」と相槌を打つ。杏賀と桃苑はお互い、顔を見合わせ微笑む。  気の済むまで抱擁をして落ち着いたのか、白桜が腕を解く。 「そろそろ宮に戻る。午前中に、片付けなければならないことがある」 「わたくしも宮に戻ります。午後からの、壽桜との約束お忘れなきよう」  梅花は「蕾柚」と声を掛け、揖礼を捧げ足を進める。が―。  ふと振り返ると、口を開く。 「言い忘れておりました。  わたくしも、白桜様がこの国の君主で良かったと思っております。  そして、白桜様を好いて良かったとも思っておりますよ」  梅花は悪戯を企む幼子のような、無邪気な笑みを浮かべる。  予想だにしない、告白に白桜は深衣の袖で顔を隠す。白桜の背後に控えている内官から、「なんと大胆な……」と呆れにも似た声が漏れる。 「父上! 母上!」桜颯の無邪気な声に、梅花は身を翻す。  二人が出会って十数年。その間、変わったものも変わらぬものもある。  白桜は内廷に足を進める。風に寒梅の香りを感じ、頬が緩んだ。
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