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倉持は自分自身を落ち着かせるために、深く息を吸って、そして吐いた。
「ちょうど、でかいヤマが重なって、捜査員が足りなくなったんだ。一件は、秋山紗江の殺人事件。もう一件は、その二日前に発生していた営利誘拐事件だった。ある会社社長の五歳の娘が誘拐されて、一億円の身代金要求があった。その一回目の取引が失敗して捜査員全員が焦っていた日だった。犯人からの接触がもうないとみて公開捜査に踏み切るか、それとも二回目の取引の可能性に賭けるか、ぎりぎりの選択だった」
「そんな日に、秋山紗江の殺人事件が起きたんですね」
「そうだ。しかも初動捜査に向かう直前に、誘拐されていた娘が犯人の元から逃げてきたんだ。人質が無事に帰ってきたことで公開捜査に切り替わった。身代金の受け渡しが失敗している捜査本部は、汚名返上とばかりに犯人逮捕に必死だったんだ」
「殺人事件のほうが、おろそかにされたんですか?」
「秋山紗江殺しは、所持品は奪われていなかったから、強盗の線は消された。それに、屋外で刺殺していることから、犯人はあらかじめ、被害者を殺害するつもりでナイフを所持していたに違いない。だから、ありふれた怨恨殺人だろうと、捜査員がたかを括って甘く見ていたってのもある」
「結局、殺人犯は逮捕できなかったんですね」
「そうだ」倉持は俯いて言った。
「しかも、誘拐事案のほうも解決しなかった。人質の娘は、事件のショックで何も覚えていなかったんだ。ただ、ホコリまみれの身体で帰ってきたことから、どこかの廃屋に閉じ込められていたことは解ったが、その監禁場所がどこかという特定もできなかった。その後、有力な容疑者が浮かんだんだが、結局は決め手がなくて逮捕できなかった。あの十二年前、県警にとって最悪の夏だった」
「最悪の夏だったのは、彼女の方じゃないんですか?」
珠子に言われて、「そうかもな」と倉持は煙草をくわえる。
「港署は小さな所轄だ。同じ時期に大きな事件が二つも起きて、てんてこ舞いだったんだ」
「そんなこと、関係ないでしょ。事件を解決するのが、刑事の仕事だって、自分で言ったじゃないですか!」
「そうだな」と倉持は煙を吐き出した。
「そう思ったんだ。でも、すでにこの世にない生命より、まだ生きている生命を優先したい気持ちが強かった。あのとき、俺は間違いなく秋山紗江の声を聴いた。でも無視した。彼女が必死になって伝えようとしていたのに、俺は聴く耳も持たなかった。霊の言葉なんか信用できない、そう頭から否定して、聴こえないフリをして現場を去った。俺は結局、どちらの事件も解決できなかった」
倉持は煙草を地面に落として踏み消し、顔を上げた。「あの」と珠子が突然間の抜けた声を発したからだった。
「秋山紗江は、ナイフで殺されたんですよね?」
「そうだ」と倉持が頷く。
「その凶器のナイフ、見つかったんですか?」
「いや、見つかってない。しかも量販店で売られている、流通品だった。凶器の購入者から犯人は割り出せなかった」
珠子は、ぱんッと一つ手を叩いた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「だって、解ったんです、事件の真相」
何て言った、今?
唐突のことに言葉が出ず、あんぐり口を開けて固まった倉持の鼻先に、したり顔の珠子が人差し指を立てる。
「犯人は、犯行目的でナイフを所持していたんです。ナイフなんか普段から持ち歩かないんだから」
「お前に言われなくとも解ってる。だから、怨恨の線で捜査したんじゃないか!」
だから、と珠子は腕を組んだ。
「そこが落とし穴だったんだと思います。凶器は、秋山沙江を殺すために持っていたんじゃなかったとしたら?」
「じゃあ、何のために――」
あっ――まさか。珠子の顔を、倉持はまじまじと覗き込んだ。こいつはとてつもないバカか、あるいはとんでもない天才か。
倉持は今、後者に賭けるつもりだった。
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