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Chapter.2-3
今、確かに聞こえた。秋山紗江は、建設中の廃ビルを見上げる。
買収され建築が始まった途端にバブルが弾け、同時にそのまま放置され、朽ちていくばかりの廃ビル郡。夜は人通りもなく、薄気味悪いのだけれど、駅から自宅まで歩くには、ここを抜けるのが一番早いのだった。それにしても、誰もいないはずのこの場所から、こんな夜中に子どもの声が聞こえるなんて。
でも、確かに聞こえた。悲鳴だ。
紗江はごくりと、唾を飲み込む。まさか、幽霊?
ばたばたという足音も聞こえる。二つ。間違いない、本当に今、中には子どもがいるのだ。こんな時間に何をしているのかしら。紗江は、ビルを囲う安全第一のフェンスの隙間から、中を覗く。
真っ暗な廃ビルの入り口。そのドアがわずかに、風で揺れている。鍵がかかっていないんだわ、だから、子どもが中に入っていたずらをしてるんだわ、きっと。
紗江がため息をついたときだった。
その揺れていたドアが開き、おかっぱ頭の女の子が飛び出してきた。それを追うように、黒服の男が飛び出してくる。
「助けて!」と、紗江に気づいた少女は叫んだ。
そのとき紗江が見たのは、少女の背後に迫る男と、そいつが握っているナイフだった。
紗江はハンドバッグをその場に捨て、とっさにフェンスの隙間に身体を入れた。
「助けて!」少女はまた叫ぶ。
待ってて! ピンヒールが脱げたことに、構っている暇なんかなかった。紗江は走る。少女が手を伸ばし、紗江はその手を掴んで強く引いた。
男の振るったナイフが、宙を裂く。紗江はとっさに、彼女を庇うように抱きかかえた。
その刹那。背中に鋭い痛みが走った。刺された――
紗江は腕を解き、少女に言った。
「逃げて」
少女は「でも」と消えそうな声で言う。それをかき消すよう、精一杯の力をこめて、紗江は叫んだ。
「逃げなさい!」
「待てっ!」黒服の男の声がする。紗江の身体を跨いだ男の足を、彼女はしっかりと掴んだ。「畜生、放せ!」男が足を振るうが、紗江は放さなかった。逃げて。逃げて。
少女がフェンスの隙間を抜けていくのは、音で解った。
男の足が、紗江の手から抜けていった。
逃げて。
生きて――紗江は、薄れゆく意識の中で、そう願った。
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