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武士道「1」
武士道というものを突き詰めて考えてみたことはないけれど、つらつらと思い浮かべて出てくるのは、甲斐の武田に伝わる軍学の教典「甲陽軍鑑」だろうか。
調べてみたところ、信玄から勝頼までの武田軍勢の戦いぶりを仔細に記した書物のようだ。調べてみるくらいだから読んだことがない。
それから、誰でも一度は目にしたことのある有名な一節。
〝武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり〟の肥前国佐賀鍋島藩の「葉隠」があるけれど、これも読んだことがない。
唯一読んだものは新渡戸稲造の「武士道」ぐらいだ。
新渡戸がクリスチャンだったことが影響しているのか、あるいは海外向けに書いたからなのか、日本に受け継がれている武士道とは違っているという否定的な意見も多いようだ。新渡戸稲造の武士道は高潔すぎると言うことらしい。
確かに遥か以前の武士の心得というか処世術というか、それに比べていわゆる二君に仕えずの武士道は違うもののようだ。むしろそれ以前は「武士道」と呼ぶべきではないのかもしれない。
新渡戸がベルギー人のラブレーに「日本には宗教教育がない」と話したところ、「宗教なしで、どうやって道徳教育をするのか」と驚かれた。
僕の認識不足だけれど、この部分に僕は驚いた。道徳教育を宗教でする? それって、妙な偏りは出ないのか? って。
新渡戸が思い返すと、日本人にとって道徳教育に当たるのは武士道なのではないか、と思いあたり著作に繋がったようだ。
ラブレーの質問に答えるかのように、新渡戸は書いている。日本において「道徳は宗教教育の中で培われるものではなく、学校で教えられるものでもない」と。
確かに日本には宗教教育はない。よって、宗教に基づいて物事を判断する習慣もない。読売新聞だったろうか、うろ覚えだから自信はないが、何らかの宗教を信心している人の数は26%だったというのを記憶している。四分の一だ。
宗教撲滅委員会の会長(そんなものは存在しないが)である僕としてはそれでよいと思っている。
僕が宗教を嫌うひとつの理由は、排他的であり非難的であり攻撃的であり、それがもっとも人を殺してきたからだ。
政治や経済の対立が根底にあったとしても、宗教が覇権を争わなければ、あたら人の命も散ることはなかった。
ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタント。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるエルサレム・ヘブロンなどの帰属問題が絡んだ中東戦争。
イスラム世界を二分するシーア派とスンニ派。関わりのない僕たちにはその心理は理解不能なのだけれど、当事者にとっては大事なことなのだ。そこが危険なのだと思う。
〝ヤハウェ〟を人種を越えて普遍的な神にした、ユダヤ教の異端児イエス・キリストの言葉に希望を見いだしてもよいし、シャーキャ(釈迦)族の王子の立場を捨てて、苦しむ衆生のために風に向かって立った仏陀の言葉に励まされてもよい。
話を戻そう。新渡戸稲造の「武士道」の中に書かれたこの言葉が僕は大好きだ。
「武士道は、日本の象徴である桜花とおなじように、日本の国土に咲く固有の華である」
「花は桜木、人は武士」という有名な言葉がある。出処はさまざま説があるけれど、今それを追求するつもりはない。
「人は武士、柱は檜、魚は鯛、小袖は紅梅、花はみよしの(三吉野)=吉野の桜」
一休禅師のこの歌の頭に「花は桜木」とくっつけたものが多く見られる。
武士道とは己を律する道であり、ある種の美学であろう。
己の欲望を抑え、艱難辛苦を乗り越えて自分を磨く克己の心。
「命を惜しむな名をこそ残せ」という言葉がある。
命よりも名誉を重んじ、忠孝を尽くす。たとえ勝てぬと思える戦であっても主君の選んだ道ならば死力を尽くす。そんなイメージがある。
東に徳川家康がいた。西に秀吉亡き後の豊臣秀頼がいた。双方が激突したのが関ヶ原の戦いだった。意図せず西軍に付くことになった藩に土佐藩と薩摩藩がある。詳細は省くけれど両藩とも東軍に付く腹づもりで動き始めたことは確かだ。
関ヶ原は東軍の徳川家康が勝利する。西軍に付いた土佐藩主・長宗我部盛親は改易され牢人となって京都へ送られることになる。そこで身ひとつの謹慎生活を送る。
土佐の領地を奪う形になったのが山内一豊である。
しかし、新しい藩主は歓迎されず、「一領具足」(半農半兵)と呼ばれる長宗我部氏の遺臣が反乱を繰り返すことになる。
そこで山内一豊は、山内家臣を上士、長宗我部旧家臣を下士として厳しい身分制度を敷くことになる。
下士は上士に対して頭を下げて道を譲らなければならず。下士たちは日傘をさすことや、たとえ雨の日であっても下駄や足袋は禁止だった。
その差別は衣服の質にまでも及び、下士は絹を着ることが許されなかった。
下士と上士の結婚は認められず、そして、他藩では武士が百姓町人に対して持った特権、切り捨て御免の対象にもされた。
関ヶ原から十年。盛親はわずか六人の従者と共に京都を脱出することになる。豊臣秀頼の招きに応じてのものだ。
そこにかつての旧臣や浪人などが合流し千人もの軍勢となり大阪城に入った。
さらにこれに呼応して長宗我部家の再興を願う旧臣たちも続々と入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った。
その軍勢の多さから毛利勝永・真田信繁と共に大阪方三人衆の位置に置かれる事になる。
しかし、大阪冬の陣・夏の陣における捲土重来はならず、盛親は京都の六条河原で斬首され三条河原に晒されることになる。
6人の子供も同様に斬首され、その血筋は絶えた。身の丈六尺(約180センチ)の偉丈夫(いじょうふ)だった。
倒幕を果たした薩長土(薩摩・長州・土佐)がいずれも関ヶ原で西軍に付いた藩であったところが歴史の巡り合わせを感じさせる。
正確には土佐の山内氏は関ヶ原で領地を得た側なのだけれど、歴史を動かしたのは長宗我部氏の旧家臣の末裔、下士である土佐郷士だった。
幕末を駆け抜けたその風雲児の名前は、ご存じのように坂本龍馬。
余計な話になってしまったが、思うに、武士道とはこれこれこういうものである、と明確に余すところなく書き上げられる人はいるのだろか? きっとどこかから異論が漏れるのではなかろうか。
けれど、僕たちのDNAにそれは間違いなく引き継がれている。
そしてさらに思う。武士道では括(くく)れないもっと違う何かが、僕たち日本人の中には確かに流れていると。
それは美意識のひとつ、わびさび「侘び・寂び」や、仏教の世界観のひとつ〝無常〟が影響しているのかもしれない。〝恩〟かもしれない。
報いなければならない、〝義理〟のある恩、〝恩義〟と書いた方がいいだろうか。あるいはまた〝人情〟であるかもしれない。
「罪の文化」である西洋と比較して、日本を「恥の文化」と称した米国の文化人類学者ルース・ベネディクト女史の書いた「菊と刀」にも触れたかったけれど、これ以上長いブログは書きたくないのでここはやめておこう。
んにゃ、充分ニャがい……
ニャがすぎる……
武士道が生きていたのは明治時代までという人がいる。しかし、僕は大東亜戦争までしっかりと生きていたと思っている。そして、今も微かに。
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