48人が本棚に入れています
本棚に追加
靖国神社
8月15日、終戦記念日。時計を気にしながら急いだけど、九段下駅の階段を上っているときに正午を回ってしまった。黙とう時間に間に合わず。
出がけに思い立って、近所のイオンバイクで自転車のブレーキパッドと、後輪タイヤの交換を頼んだのがあだとなりました。
でも、やや曇りの空模様で、日差しに炙られなくて助かりました。
帰りに引き取りに行ったら、10164円でした。まあしょうがない。坊主タイヤも利かないブレーキも危ないし。
門をくぐったけど、汗を流しながら鉄砲担いで行進する人たちも、軍歌を歌う人たちもいません。右翼のアナウンスも静かになりました。靖国神社ちょっと寂しい。
九段下の駅から続いているチラシ配布のひとたち。
神社入り口近くの、武道館へ向かう歩道橋から撮っています。右奥が九段下の駅です。さまざまな署名活動が行われています。「新しい歴史教科書をつくる会」の方々もいました。
神社側、画面手前の両サイドに並んだご婦人たち……坂を上がってくるところから、すでにワラワラといました。「日蓮上人」のパンフです。この人たち近所の公園にも現れます。
「大鳥居」(第一鳥居)です。
柱の高さは25メートル、直径2.5メートル、上の横木である笠木は長さ34メートル、直径2.7 メートル、重さは100トンという、日本最大の大鳥居です。
素材は、青銅、ヒノキと変わり、現在は最新技術の耐候性鋼で耐用年数が1200年だそうです。
参道のど真ん中に立つ「大村益次郎」像。高さ約12m。
長州藩出身。戊辰戦争などで長州藩兵を指揮した幕末の西洋兵学者です。
維新十傑の一人にも数えられる一方、歴史の変革期に足跡を残した期間は短く、明治二年(1869)、新政府の兵部省初代大輔(次官)に就任して間もなく刺客の襲撃に遭い、その傷が元でこの世を去りました。
東海道総督府参謀の海江田信義(有村俊斎)に「戦を知らない」なんて言って激怒させたからだね。きっとやられちゃった。
海江田さんって「生麦事件」で瀕死になってたイギリス人・チャールス・リチャードソンに止めを刺した人だからね。戦略家としての目は確かだったようだけど傲岸不遜な性格が災いしました。
さて、喉が渇いたし、アイコスも吸いたい。第二鳥居に行く前に左折。ジョージアのエメマンを買って喫煙所へ。
垣根の向こうが喫煙所です。
チャージ完了。第二鳥居へ。
「第二鳥居」 高さ約15m。
神門前の第二鳥居は青銅製の烏居としては、日本一の大きさです。円筒形の柱には継ぎ目がありません。明治時代の最先端技術を用いて、大阪砲兵工廠の反射炉で制作され、明治20年に完成しました。
うむ……大鳥居もそうだったけど、鳥居のところで頭を下げる人の数が少ないぞ。でもまあ、終戦記念日に汗を拭きふき参拝にくるだけ偉いな。
「大手水舎」 第二鳥居をくぐって左。奥に見えるのが「神門」
コロナの影響か、ひしゃくがなくなってました。細い竹からチョロチョロ水が流れてます。コロナは大切な伝統まで奪っていくのか。
清め方の基本。ひしゃくを使って左手、右手を清め、左手に注いだ水で軽く口をすすぎ、それから両手でひしゃく持って持ち手部分に水を流す。この参拝のしきたりを日本人は忘れてしまうのだろうな。
ちなみに、以前の手水舎です。
コロナが収束したら、戻してほしいですね。日本女性が自分で着物を着られなくなる時代が、たいした年月も経ずして訪れるなんて誰も思わなかっただろうし。途切れるということは失われるということ。
欧米に比べ日本は航空機作りに遅れをとっていたけど、零戦に代表される優秀な航空機を輩出していった。戦後は航空機の製作はおろか、研究や運航までも禁じられた。
そのせいで日本の飛行機を作る能力は失われました。次期戦闘機は日英共同開発のようだけど、戦後もあのまま作り続けていたら、日本の技術力は世界最高水準の航空機を送り出していたでしょう。ボーイングやエアバスと競っていたはず。
「神門」 昭和9年に完成。
高さ6メートルの扉に取り付けられた菊の御紋章は、直径1.5メートルあります。芦田愛菜がすっぽり収まります。
「中門鳥居」と「神殿」
結構な行列でした。この後ろにも大勢並んでいます。
僕は並びませんヾ(;´▽`A“
なぜなら「遊就館」でゼロ戦も見なくてはなりません。実はここを右にクルリと回ると、神殿のすぐそばに出ます。並んでいる人に申しわけないので手は合わせませんでしたが、ちゃっかり参拝している人もいました ː̗̀(☉.☉)ː̖́
ここです。
画面左下にちょっと見えているのが並んでいるひとたちです。
画像が10枚までしか載せられないようなので、ここまで。
─to be continued─
最初のコメントを投稿しよう!