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彼は神に愛されていた。
理由を知る者はいない。
平凡な男が、その身に受けた寵愛を世に知らしめたのは、顎に無精髭が生え始める年頃のことだった。
田舎町で催された競技会へ、彼は飛び入りで参加する。
豊作を祝う大会にあって、他所者が出場しようと咎められはしなかった。
競技会と言っても住民も少ない辺境のこと、競う種目は一つだけだ。
徒競走――町外れのエンジュの巨木まで、誰が一番に到達できるかを争う。
半裸の男たちが、号令と共に町の中心から駆け出し、ただ一心に木を目指した。
その年初参加の若者たちを、或いは過去の優勝者を抜き去り、彼は圧倒的な速さで走る。
町の健脚自慢は、なすすべもなく遠ざかる背を追うだけだった。
神に愛された足、神脚の男。
噂はすぐに隣町へ伝わり、尾鰭を付けてさらに隣へ。
大都市にまで伝播した時には、足先から稲妻が光ったとか、走るだけで突風を巻き起こしただとか、お伽話の如き有り様だった。
彼は走ることこそが生き甲斐で、他は雑事とばかりに顧みない。
いや、食事にだけは気を遣っていたか。適度な栄養は、身体を動かすための燃料なのだから。
食べ物を得るために力仕事を引き受け、収穫事には臨時の雇われも熟した。
体力には申し分無く、寡黙で礼儀も弁えた男は、どの町でも重宝される。
ただ、人々に温かく迎え入れられたのには、やはり最速の噂が広まったことが大きい。
働かなくていいから、皆の前で走ってほしい――そんな条件で報酬を得ることもあった。
神速の勇姿を一目見ようと、男の行く先々に人が集まり始める。
彼を神と同一視する町人からは、捧げ物もされた。
働かずとも金を貰える、それが如何に男にとって嬉しいことだったことか。労働時間の全ては、やがて走るためだけに取って代わられる。
より速く。何者よりも、速く。
土煙を濛々と巻き上げ、国の端から端まで駆け巡る姿に、人々は得も知れぬ高揚を感じた。
伝説でしかない神の存在を、男は顕在せしめたのだ。平静でいられる者などいまい。
だが、平和な世界は突如、黒雲に包まれる。
暴虐なる東国の王が周辺諸国を併呑しつつ、遂には男の住む国もその歯牙に掛けようと動いた。
国境から攻め入った王軍は、瞬く間に国土の半分を占領する。
進撃は勢いを増し続け、人々は西へと追い立てられた。
西端は海、小さな漁船ならともかく、そこから皆を乗せて逃げ得る船など存在しない。
男は殺され、女は手籠めにされ、子供は奴隷として連れさられよう。
絶望が、皆の顔に陰を落とす。
縋る視線を送られても、神脚の男もまた、避難民に混じって逃げるだけだった。
西岸に集結した人の群れ。
そこへ偵察兵が到着し、敵軍が目と鼻の先にまで迫ることが伝えられる。
味方は総崩れで、もはや国は風前の灯だった。
大声で危機を叫び、皆へ覚悟を求める兵へ、神に愛された男が近づく。
「神脚の……。汝の力を以ってしても、もう事態は覆せまい」
男の返答は、簡潔である。
「走ろう」
「なんと?」
海を走る、そう男は言う。
走った先には、必ずや新天地が待つ。
どこまでも走り続けられる、走者の楽園があるのだ、と。
髭を伸ばし放題にした男の顔は、神託を告げる賢者のようだったらしい。
「神の足なら海の上も走れよう。だが、我々には無理だ」
「私の力は、この時のために与えられたのだと悟った。恐れず、ついて来てほしい」
厳かな言葉に、一人、また一人と賛同する者が現れる。
我らは神の子なり。神脚に導かれて、楽園へと到る。
文言を唱和するさざ波は、すぐに波濤と化し、西岸一帯に響いた。
自分から暫し離れるように、と注意して、男は波打際に独り立つ。
――ああ、神よ。我に最速を与えたまえ。
身を屈め、首だけ持ち上げて沖合を睨む。
力を溜めた足の筋肉が、はち切れんばかりに膨らんだ。
数瞬の静寂が、なんと長く感じられたことだろう。
人々の期待と不安をその背に集め、彼はただひたすらにバネを縮める。触れれば弾ける、全身全霊をかけた筋肉のバネだ。
一匹の海鳥が、男の前方を水平に横切った。
時は来たれり。
爆発、としか言いようがなかったそうだ。
男を中心にして、球状の力場が発生したかと思うや否や、球は海へと一直線に突き進む。
力の弾丸が波を打ち砕き、軌跡の左右に大波が立ち上がった。
海を削るラインが引かれてから、一拍置いて爆音が轟いたのだとか。
彼が走り進むと、海が割れた。
真っ二つになった海は、泥と海藻がへばり付く底を見せる。神脚は、見事に道を作ってみせた。
脱出に成功した人々は、男を讃えて後世に伝承したものの、残念ながらどこまで正確に伝わったか怪しい。
しかしながら、その偉業は文字に起こされて今も知られる。
海を割った人間など、彼以外にいるものか。
詳しくは、聖書を読めば分かる。
旧い方の。
たぶん。
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