言えない想いは海のどこかに

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小学校五年生になったばかりの奈々子は、泣きながら崖の上へと走っていました。崖といっても他愛のない、夏になれば地元の子供たちが度胸試しと称して下に広がる青い海に向かって飛び込むものです。奈々子は一度も飛び込んだことがありません。崖の上は怖かったし何より奈々子は泳げませんでした。 (大丈夫。練習すれば泳げるようになるさ。父さんだって泳ぐのは下手だった) 眼鏡の奥で奈々子に笑いかける父親の顔が思い浮かんで、奈々子は右手の甲で涙をぬぐいます。真一文字に結んだ唇からは、走り続けたために息がもれました。崖の上にたどり着いた奈々子は、左手に握りしめていた空き瓶を思い切りよく振りかぶって空に投げます。弧を描いて青い空に向かった瓶は、すぐに青い海へと落下していきました。奈々子は瓶が白い波しぶきの間で揺れて、見えなくなるまで立っていました。 奈々子は今日の午後、この町を離れます。お父さんとお母さんが離婚するので、親権を持つお母さんと一緒におばあちゃんの家に行きます。お母さんの意向でお父さんとは会えなくなりました。何が悪かったのか奈々子にはうっすらわかっていましたが、まさか会えなくなるとは思っていませんでした。お父さんはよその女の人と別の家庭をつくっていたのです。お母さんは毎日泣き、奈々子もお母さんを泣かせたお父さんとお父さんと一緒にいる女の人を恨みました。 「お父さんの、バカヤロー!」 こんな言葉を使っていると知ったら、お父さんもお母さんも驚いたでしょう。ですが、奈々子はこれでも足りないぐらいだと思いました。とめどなく流れる涙を袖で拭うと、元来た道を走りだしました。 (お父さんは、一度も飛び込んだことがなかったけど、飛び込む勇気がある友達が羨ましかったよ) 奈々子は一生飛び込まないと思いました。この町に帰ってくるなどあり得ませんし、やっぱり泳ぎは下手なままだったからです。飛び込む勇気よりも、踏みとどまる勇気の方が必要なのではないかと考えました。
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