Ep1.救世主はぷるぷるごっこ

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***  豊平区にあんぱん道路と呼ばれる道がある。月寒から平岸を結ぶ2.6キロの道路は、明治四十四年に完成し、ある出来事からあんぱん道路と名付けられ、地元民に親しまれている。  道路名の由来はさておき。あんぱん道路は曲がり道や坂道が多い。近くの自動車学校では、技能研修の際にあえてこの道路を通って練習することがあるほどだ。比較的平坦な道や大きな通りと重なる部分もあるのだが、咲空が向かおうとしていたソラヤはあんぱん道路坂道の間である。札幌市営地下鉄東豊線月寒中央駅で降りても、しばらく歩かなければならない。  こうも歩くとなれば車を使って移動したいところだが、残念ながら免許は持っていても車がない。レンタカーを借りるにしても店を探すのが面倒で、タクシーを使うには駅から離れてしまった。歩くしかないのである。 (採用になっても通いたくないな……)  氷点下の坂道を歩くのは気を使う。ブーツに付着した氷が解けて靴下はべっとりと濡れていた。歩くたびにブーツの中で水がびちゃびちゃと跳ねて煩わしい。氷のように冷たかった水は体温混ざってぬるくなってきた。あまりの冷たさに感覚がないだけかもしれないが。  うんざりとしながらもひたすら歩き、ようやく地図アプリの目的地と現在地の表示が重なった。  そこにあるのはビルではなく、ただの家。普通の一軒家だった。あちこちに吹き付けられた雪が混ざっているがクリーム色の外壁に紅色の三角トタン屋根。少し遠くからその屋根の形を見上げた咲空は、この家はそれなりに古いのだろうと思った。  北海道のように屋根の雪が凍ってしまう地域では瓦の屋根は使われず、雪の滑り落ちやすいトタンを使っていた。しかしこのトタン屋根は雪が滑り落ちやすいがためのデメリットを持っている。まずは屋根に積もり凍った氷雪がトタン屋根を滑り落ちる落雪事故だ。屋根からの落雪に人が巻き込まれると大怪我、最悪は死ぬことさえある。落雪の勢いは、地面に落ちる氷雪の音を初めて聞いた人が雷が落ちたと驚くほど。落雪に至る前にと屋根の雪下ろし作業をする者もいるが、傾斜のきついトタン屋根である。雪下ろしのはずが屋根から落ちて大怪我という話もよくあるものだ。さらにつららである。屋根から伸びたつららは、天候や地域によっては1メートルを超える。それが落ちてくるのだ。大きなアイスピックが空から降ってくるのを想像すればいい。  ともかく。近年の北海道住宅事情は、トタン屋根でなく無落雪屋根が多い。遠くから見ると豆腐のような家である。無落雪屋根には雪止めやV字型など様々な形があるが、どれも雪下ろしの必要少ない、便利な家である。  ソラヤは古き良き三角の屋根。トタン屋根だ。近年建てられた家ではない。しかし外壁は綺麗な上、こじんまりとした庭もある。今は冬だからか雪が積み上げられているが歩道から玄関まで丁寧に雪をかいている。軒先に雪かきの道具も並んでいた。  クリーム色の外壁と赤いトタンの印象からか、女性が住んでいそうな家だと思った。可愛らしい配色。さらに『ソラヤ』と書かれた表札の隅に、ポイントとして花の絵が彫ってあった。  相手が同性であれば文句も言いやすいかもしれない。咲空は短く息を吸い込み、呼び鈴を鳴らした。 「はーい?」  しかし聞こえてきた声は、可愛らしい外観と真逆の低さ。男性の声がした。  面食らう咲空だったが、ここまで何のために歩いてきたのかと責めるようにブーツの中が水でびっしょり。引き返してなるものかと自分を奮い立たせて、口を開く。 「今日、面接予定だった鈴野原咲空です!」 「面接予定……ああー、なるほど」  今思いだしたとばかりの物言いである。意気込む咲空と逆にゆるい空気が流れていた。  そしてようやく扉が開く。 「うんうん。そういえば面接予定でした。君、よくここに着けましたねぇ」  現れた男は、白いシャツに黒のスラックス、腰に黒のギャルソンエプロンと、カフェ店員のような格好をしていた。男にしてはやや髪が長く、セミロングほどはあるだろう。それを低い位置で結っているのだが、どうやって結ったのか不思議なほど髪が乱れている。目鼻立ちくっきりとした濃い顔つきで、イケメンというよりはワイルドだとか男前とかそういった言葉が似合いそうだ。しかしどうも口調が軽いので、軟派な印象になってしまう。 「よくここに着けたって……それどういう意味で――」 「まあまあ。とりあえず中へどうぞ」  なんとも怪しい雰囲気を纏う男である。ここで逃げ出すわけにもいかず、咲空は男の後をついて店内へと入った。  カフェ店員のような姿から、ソラヤとは喫茶店かもしれない。そう思っていた咲空だったが、いざ中へ入ればカフェと言い難い狭さである。中には木製のカウンターがあり、席は三席ほど。見渡しても他にテーブルや椅子はなく、木製の棚とそこに小瓶や果物が並んでいる。棚と棚の隙間を埋めるように観葉植物が置いてあり、カフェというには席が少なく、雑貨店というには商品が少ないのである。 (一体、何のお店だろう……)  いくら店内を眺めても答えは出なかった。しかし、木製で統一されたダークブラウンの家具とそれに合わせたフローリング、あちこちに置いてある観葉植物の緑色が差し色となった空間は居心地がいい。  さて男はというと。咲空をカウンター席に案内するなり「お茶を淹れてくるよ」と呑気なことを言って、こちらに背を向けてしまった。カウンター内のテーブルにはポットや茶葉が並び、小さな冷蔵庫のようなものもある。やはり喫茶店なのか。  カウンターの奥には廊下があり、もしかするとここは自宅兼喫茶店かもしれない。廊下は電気が消えていたのでどうなっているのか見えなかった。  興味津々に廊下を覗き込んでいた咲空を知らず、男はお茶の用意をしながら口を開く。 「ここに辿り着けたのは君が初めてです。みんな、偽の住所を信じてしまうので」 「偽の住所……ってことは、大通の住所はやっぱり嘘ですか!?」 「はい。あれは特殊な技術を使った偽物の住所。それを見抜くのが面接試験ですよ」  男は笑う。風に流されて舞う粉雪のように軽い。軽すぎるのだ。  居心地の良い店内に流されていた咲空もその態度は見過ごせない。大通で探し回ってからここまでの苦労が一気に爆発した。 「ずーっと……探し回っていたのに……」 「え?」 「見抜くのが面接試験って、わかるわけないでしょ!? 何回も読んだ、見た、探し回った! 何回見ても大通って書いてましたよ!?」  男はなぜ咲空が怒っているのかわからないと、すっとぼけた顔をしていた。それでもかまわず咲空は眉間にぐっと皺を寄せて男を睨みつけ、叫ぶ。 「偽の住所を載せて騙すなんて最低です!」  ようやく咲空が怒る意味がわかったのか、男はじっと咲空を見た後に数度頷いた。しかし紡がれる言葉はやはり軽い。 「なるほど、偽の住所を信じてしまったんですね。でもここに着けたのならオッケーですよ――はい。これでも食べて落ち着いて」  咲空の怒りなどお構いなしに男はお茶とお菓子を置く。お茶というよりは深いこげ茶色をしていてコーヒーのようだが、香りは違う。あの香ばしさはない。お茶菓子として添えられているのは古き良き、昔を思わせるパッケージをしていた。 「疲労時は糖分補給って言いますから。イライラした時にも効くかもしれません」  このイライラは男のせいだ。文句を飲みこんで、お茶菓子に手を伸ばす。  ビニールの包みに入っているのはどら焼きのようなまんじゅうのようなもの。その平べったい形は潰れた温泉まんじゅうを思わせる。しかしパッケージには『月寒(つきさむ)あんぱん』と書いてあるのだ。咲空が知っているあんぱんとは違う。あれはもっとふっくらとしていて、もっと大きい。  月寒あんぱんの名前を聞いたことはある。札幌のお土産としてもらったことはあったかもしれないが、どんな味かはさっぱり覚えていなかった。 「ほらほら、食べてください。まずは胃袋を満たして」 「……いただきます」  ぺりぺりとビニール袋をやぶいてあんぱんを取り出せば、見た目よりもずっしりと重たい。皮はそこまで厚くないが、その分こしあんが詰まっている。  食べてみれば、こんがり焼き上げた皮の香ばしさが口いっぱいに広がり、そこに餡子の濃密な甘さがどっしりと圧し掛かる。和風のどこか懐かしい、素朴な味だ。 「どう、美味しい?」 「……おいしいです」  一口食べるとやめられない。餡子が多いから甘ったるくなるのではないかと思ったが、そんなことはない。薄皮の香ばしさや触感によって丁度いい塩梅になるのだ。ここまで迷いながら歩いてきた疲れが、甘味によって溶けていく。  しかし――思っていたよりもこれは腹持ちがいい。咲空が想像していたあんぱんよりも小さいといえ、中身はぎっしり詰まっている。 「僕も食べようかねぇ。お腹が減ってきちゃったので」  男はカウンターの端に積んである山に手を伸ばす。山と思っていたそれはよく見れば、月寒あんぱんのタワーだ。積まれたその数、十個以上。その頂点をひょいと取ると、慣れた手つきで封を開けた。 「こんなに月寒あんぱんがあるなんて、ここで作っているんですか?」  咲空が訊くと、男は「まさか!」と笑った。 「これは趣味です。月寒あんぱんは人間の英知が詰まった極上の食べ物ですから! ずっしりと重い餡子に薄皮。この袋には甘味の暴力が詰まっている。なんて素晴らしい食べ物でしょう」 「趣味ってことは、これを全部食べ……る?」  見た目に反しずっしりヘビー級の月寒あんぱんは攻略が難しく、さほど甘味好きでない咲空は一個食べるのがやっとだ。まさかと疑いながら聞いたのだが、男は当たり前のように「そうですよ」と頷く。  見れば男は一個目のあんぱんを食べ終えようとしていた。恐ろしい速さである。  胸やけしてしまいそうな男の食べっぷりを横目に、出されたお茶に手をつけた咲空だったが。 「ぶっ! な、なにこの飲み物……まっず」 「あれ? お口に合いませんでした?」 「何ですかこの、苦くて酸っぱくて舌にビリビリ残る油っこい飲み物!?」  色からして濃いめの麦茶だろう。なんて想像したのが間違いだった。一体何のお茶なのかわからない。とにかく不味い。 「ンノノスモ茶です」 「ンノ……? な、何のお茶です、これ?」  咲空が生きてきた二十年間で、これほどに不味い飲み物があっただろうか。コメディ番組の罰ゲームとして出てくる不味いお茶を飲んだことがあったが、それを遥かに上回る。不味い単語を一通り並べても足りないほど、とにかく不味い。  それを男は平然と飲む。吹きだすどころか、ごくごくと喉を鳴らしていた。 「おかしいですねぇ。このお茶、うちのお客様に外れたことはないんですが」 「……水ください」 「はいはい。仕方ないなあ」  月寒あんぱんが美味しいというのはわかる。男ほど数は食べられないだろうが。  しかしこのンノノスモ茶に関してはわかりあえない。こんなお茶がこの世に存在していたことにショックを受けてしまう。  奥の部屋へと引っ込んだ男は、水の入ったコップを手に戻ってきた。それも不味いのかと一瞬ほど疑ったが、口にすればちゃんと水だった。安心して口中に張りついた謎茶の不味さを流しこむ。
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