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chapter2-2
古い石組みの壁面に、何とかしがみつきながら、二十メートルくらい降りたか。真っ暗闇の中、やっと右足が水に浸かった。
「助けて!」
少女が言う。恩田は思い切って着水する。深い。浮き上がって、必死にバランスを取りながら、少女を縄に片方に縛りつける。
《大丈夫だ、珠子! がんばれ!》
シマさんが上から叫んだ。
少女――珠子が頷いた。彼の言葉は聴こえていないはずだが、血のつながりがある者同士、気持ちが通じたか。
縄は井戸の上の滑車を経て、恩田の身体に巻きついている。その縄を、恩田が思いっきり引いた。途端に、珠子が「痛いッ」と悲鳴を上げた。
「がんばれ!」
恩田は力いっぱい引く。しかし、彼女の身体は上がらない。
なぜだ、畜生!
もう一度縄を引こうとした恩田の視線が、水中に吸い寄せられた。珠子の足を掴む、別の少女。
あいつか。
恩田は力を緩め、思いっきり息を吸い込んで、水中に潜った。着物を着た少女が、珠子の足を握る手に渾身の力をこめていた。
放すんだ。
恩田は水中で口を動かす。それでも、着物の少女は首を横に振る。
その姿は、ただ単にいやいやと拒否しているのではない。
泣いているのだ。
怖くて、淋しくて、誰かに一緒にいてほしくて、泣いているのだ。
恩田は一度水面に戻り、また大きく息を吸って潜った。今度は、もっと深く。真っ暗な水中で、必死に目を凝らす。
どこにいる。どこにいるんだ。この水の底の暗闇の、どこかに彼女の心がある――
そのとき、何かがきらりと光った。恩田はそれを掴み、上昇する。《返して!》水中ではっきり、少女の声が聴こえた。これだ。
恩田はそれをしっかりと握りしめ、少女の前に突きつけた。
一緒に帰ろう。そう、口を動かす。
少女の手が緩んだ。
恩田は水面に戻り、一気に縄を引いた。二メートル。五メートル。八メートル――珠子の身体が上昇していく。
《もうちょっとだ、がんばれ!》
「うん、おじいちゃん!」
恩田は一瞬驚き、目を見開いた。
彼女には、シマさんの声が聴こえている?
いや、不思議ではないか。珠子は古井戸の少女に足を掴まれていた。普通、霊は実体がないものだが、しかしその霊の意志が強力で、また生きている人間の側にも強い霊力があれば、極稀に、霊と接触できることがあるのだ。たぶん、珠子もそうなのだ。それにシマさんは、元はといえば超一流の霊感刑事だ。その血筋ってことだろう。
珠子の身体が、井戸の外まで上がりきった。必死に小さな手を伸ばし、何とか井戸の淵を掴む。
その姿が地上に消えた刹那だった。引いていた縄が切れ、恩田は反動で、暗闇の水中に身を引きずり込まれた。
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