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一方、母はプロではなかったが、相当な腕前のピアニストだった。スライは音楽の才能はかけらもなかったので、早々にピアノを諦めたが、クリスは弾き続けた。母は自分が若い頃に使っていたボロボロの楽譜をクリスに譲った。赤鉛筆でたくさん書き込みがしてあり、日付が書かれていた。そこには若き日の、美しい女学生だった母がいた。だが、その母は今やリウマチになり、手が不自由になった。マクニール家の古いスタインウェイは、何年も蓋を開けられることもなかった。
久しぶりにクリスが郊外の家を訪れた。そして、ピアノの蓋は数年ぶりに開かれ、黄ばんだ象牙と角の欠けた黒檀の鍵盤に、クリスの指が置かれた。クリスは、母の楽譜で覚えた曲を次々に弾いた。
ショパンの”仔犬のワルツ“はちょっと皮肉を込めて、そして”幻想即興曲“、リストの”愛の夢“、ドビュッシーの”アラベスク“、モーツアルトの”トルコ行進曲“、バッハの”ゴールドベルク変奏曲“。最後にショパンのエチュード。”別れの曲“の後に、”蝶々“を弾いた。
弾き終わったとき、母がポツリと言った。
「その曲、私は弾けなかったの。クリスみたいに指が長くなかったから。いつのまにか私を追い越したのね」
クリスは母の曲がって動かなくなった指をそっと握った。
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