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一章
普段はあまり通ることを好まない大きな筋を歩いた
大阪の町は碁盤の目のような街を目指していたのか、詳しいことは分からないけれども、南北を通る道が筋、東西に延びる道が通りと呼ばれていた
だが、通りと筋だけでは街が完成しなかったせいなのか、街の巨大化が想定外だったからなのか、斜めにも走る道路があり、電車などは円を描いていた
そんな大阪に愛着が殊更あったというわけではなかったが、私が今の姿と能力で、仕事を得て生きていくことができる規模の街を他に知らなかった
規則正しい生活をし基盤の目のような生き方をしてきたつもりでも、歪んだり曲がったりするし、歪んではいないと思っていた道のりも、人の目からは曲線に見えたりもするのだろう。なにをもって真っ直ぐとするか等というのは一概に言えるものではない
今南に向いて歩を進めている堺筋も、完全な直線で南北を貫いているわけではなかった
天満宮の鳥居を横目にする天神橋筋から分岐した堺筋は、通りのようにやや西に進路を取り、その後、筋としての本分を思い出したかのように南進し、天下茶屋まではほぼ一直線に大阪の中心部を貫く
もっとも、車は北進の一方通行で、この筋を南に歩くこと自体、本来の堺筋からしてみればあべこべの進み方なのだろう
そもそも大阪の街が計画されたときは、東西の通りが主幹で南北の筋は従線であったらしい
その中で堺筋は、和歌山へ至る紀州街道の一部区間で、江戸時代の船場において堺へ出る道であったことから堺筋と呼ばれたようなのだが、今の「堺筋」は、天下茶屋という大阪市内の下町で途切れ、名前のように堺には達してはいない
それでも、道半ばであっても、大阪の人間はこの道を堺筋と呼ぶし、堺筋以外のなにものでもないことはみんな知っている
その筋を、何者にもなれなかった、いや、何者でもない私は、この春からはほぼ毎日歩いていた
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