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壱・夢の中のはずの
ブォオオオオオオオ!!
ハッと目を開いた時には、そんな掃除機が爆発したみたいな音を立てていて、部屋中のものが散乱していた。眠る前に部屋の灯りを消したはずだが、その様子が手に取るように、俺には解ってしまったのだ。
「……………!!」
驚くままに俺は自らの眼を動かす。そして事態をもっと知りたいがために起き上がろうとはするのだけれど、それは叶わぬ夢だった。目下、俺の体は眼以外の全ての四肢の自由が奪われていて、更に、驚くべき事に、どうやら自分自身が発光しているようだったのだ。
(なんなん……これ……!)
正直、俺は焦った。金縛りなんて生まれてはじめての経験だ。ましてや、おまけに自分の体がビカビカ光っているなんて、あり得ないだろう。と、既にほとんど万年床と化している布団に面している背中に、躊躇いがちな指先の感触が伝わったのだ。すぐさまに俺は其の正体が誰かを悟ったのだ。
(お……姉ちゃん……?!)
先ほどまでの「遭遇」が「夢」でないとすれば、彼女しかいなかった。そういうわけで、話は十年以上前に遡る。
随分、小さい頃の事だ。印象的な事だったから、こんな年になっても、俺は未だによく覚えている。それはある「夢」の事だ。あの日も、春が終わり、夏が来る、そんな一歩手前の時期だった気がする。そんな金持ちでもなかった実家の団地の自室の窓は空いていて、覆った簾がカラカラと微かに鳴る中、もうすっかり南風となった夜風が部屋の中をそよいでいた。いつもの様に、うつらうつらと俺の瞼は閉じていったのだが、「夢」の世界の中で、俺は、知らない街の路上に立ち尽くしていたのだ。そして、それが「初日」だった。
街の空は、よく晴れた青空で、街並みは、洋風な、小洒落た一軒家が道沿いに延々と並んでいた。
「…………」
先ほどまで月明かりの中にいたはずなのに、幼心は、先ずは時間のギャップに驚いたものだ。ただ、驚いてばかりもいられない。此処はどこか、と、とりあえず俺は歩きだしてみる事にした。仰天しながらも道沿いを行くと、個人商店の電気屋があったり、路上に修理中のままとなった自転車なんかが置かれた自転車屋さえ見てとれた。どれもこれも見知らぬ街だったが、どこかで見慣れた空気感も漂っていて、そして俺は束の間の安心もしたけれど、急激に心細くもなっていったのだ。次の瞬間には、俺は火が付くように泣いていて、泣きながら歩いている有様で、まだ、人に道を訪ねる、なんて高等スキルは持ち合わせてはいなかった。すると、やがて、泣き声に気づいた人影があちらこちらから集まってきたのだ。
自分から助けを呼ぶように泣いておいて、知らない大人たちに囲まれてしまえば、俺は更に怖くて泣いた。彼らからしても見慣れない子だったのだろう。名前と住んでる所を聞かれたのだけど、俺はまだ、自分の名前を答えるので精一杯の年ごろだった。やがて、すっかり困り果てた大人たちは、顔を見合わせ、話し合いをはじめ、確か、そのうちの誰かが「警察」なんて単語を口走った時だった。
「僕、なんにも悪いことしてないのにタイホされるの?!」
完全に勘違いのショックを受けた俺の泣き声は、更にヒートアップしたのだ。
苦笑しながら自分たちの真意を俺に説明し続ける大きな人影たちの足元の隙間から、ふと、じっとこちらを見つめる視線を感じた。そして、その蒼い瞳と赤毛の長い髪を見た瞬間、
(……お人形さんみたいな『お姉ちゃん』がいる……)
これが最初の印象で、あまりの可愛さに息をのみ、気づけば俺は泣き止んですらいた。やがて、おずおずと皆の前に現れた視線の主は、人影たちに何かしらを語りかけていて、泣き止んだままの俺は、そんな彼女の後ろ姿を見上げていた。白いワンピースの衣の端が揺れて、多分、当時、小学校は高学年あたりの年ごろだったのではなかろうか。しとかやな語り口が印象的だった。
やがて、懇々と話し続ける彼女に説得されるかのように、皆は頭をかいたりしつつもそれぞれに解散していった。未だ、俺が惚けたようにしていると、
「……よしっ、と」
自らに言い聞かせるようにした後に、後ろ姿は振り向き、ゆっくりと俺の前でしゃがむと、
「ボク、君。……とりあえず、お姉ちゃんのお家に、いこっか?」
と、静かに語り掛けてきて、何処までも抜ける様な肌の白さが目の前に、すっかり大人しくなった俺は、ゆっくりと頷いていたのだ。
「お姉ちゃん」の手を握ると、俺たちは歩きはじめた。その手がうっすらとひんやりとしていた事もよく覚えている。電柱の電線の上には鳩が並んでいたりして、すっかり、なんだか、上機嫌とすらなった俺は、まるで幼稚園にいる時のように、繋いだ手を振り回しながら歩いていたのだ。どこまでも洋館な景観が立ち並ぶ中、俺の上機嫌に付き合い、彼女も俺の住んでいる家の居所を聞いてきたのだけれど、相変わらず、名前が言えるのが限界だった容量のえない答えに、
「そ、そっか~……」
と、いささか狼狽している様子だった。
きっと、ああいうのを高級住宅街って言うのだろう。当時、都下の外れに育った俺の周囲は、まだまだ都市開発の波から取り残されたような場所で、畑の向こう側の友達の家に向かって大声で名を呼べば、その部屋の窓がガラっと開いて、本人が答えるなんて事もざらにあったのだ。そんな田舎育ちには、共に歩く家並みが、まるで、デコレーションケーキの行列のようにすら見え、「お姉ちゃん」の家は、そんな家の中でも一際に大きく、まるで宮殿のようにすら思えたものだった。
「ただいまー」
一声をかけると、手をしっかり握って離さない俺と共に、「お姉ちゃん」は慣れた手つきで家の中を進む。高い天井にはシャンデリアが飾られ、ど真ん中にある大きな階段は、中途の踊り場から二手に分かれ、二階へと続いているのが印象的だった。そうして通されたリビングには、大理石のテーブルと、エプロンの姿をした、どこにでもいそうな美人のおばさんが腰をかけていて、お茶なんかを飲みながら新聞に目を通し、一息いれている頃合だったのだ。
「お帰り~。って、あら、どうしたのー? その子」
「うん。それがね。迷子みたい、なんだけど……」
やがて「お姉ちゃん」のお母さんだと知るおばさんは、こちらを見ると多少、驚いた様子を見せ、「お姉ちゃん」は事情を説明し、うんうんとおばさんは聞いている、人の好さそうな親子の会話が続いた。
広々としたキッチンは、まるでおとぎの国の宮殿の一室だ。見慣れない光景の数々をキョロキョロとしていると、どうやら話がまとまったらしい親子の母親の方が、お菓子を食べないかと笑顔を向けてきていた。相変わらずしっかりと手を握ったままの「お姉ちゃん」の方を振り向くと、蒼い瞳が優し気にこちらの方を見下ろしている。ならば、これを快諾しないわけがなかった。
「お姉ちゃん」に補助されながら、椅子に腰かけると、体のほとんどはテーブルに埋もれてしまうほどの位置だったのだが、共に座る「お姉ちゃん」と俺の前に、クッキーなどが盛られた皿が並べられた、その時だった。俺は尿意を催したのだ。おばさんにトイレの場所を聞くと、
「一人でできるよ!」
言い残して、一目散に駆けていった。ピカピカの金色のノブを開けると、これまたピカピカの洋式便所が、でーんと現れ、まだまだ見慣れない時代の其れに、一瞬、躊躇もあったけど、俺はよじ登り、用を足そうとしたのだ。すると、急に目の前の視界は、全て真っ白な輝きの中に覆われていった。
気づいたら目が覚めていた。簾の窓の向こうでは、既に夜はあけはじめ、朝日すらちらついていて、俺は寝ぼけまなこなままに起き上がると、自宅の和式便所の元へと駆けていったのだ。幼心ながらに全てが夢と悟ってしまった時、とても残念な気持ちになった事は今でも覚えている。再び、横にもなったけど、登園時間になるまで間もない頃合だったし、結局、幼稚園ではしゃぐだけはしゃいでいるうちに、忘れてしまう様な些末な事のはずだったのだ。
その、「二日目」さえ来なければ。
その日も簾は夜風の中を微かにカタカタと揺れ続け、俺はすっかり何もかもを忘れて眠りへと誘われていった、そのはずだったのだ。
気づけば其処は「お姉ちゃん」の家の洋式便所だった。
(…………!)
子供の記憶じゃ、とっくに忘れてもいいはずの出来事だったけれど、昨日で今日、こんな「夢」の只中にいたら、何もかもを思い出すというものだった!
(…………)
おずおずと、覗き込むようにしながらドアを開けると、「お姉ちゃん」が立っていて、
「大丈夫?……心配したよ?」
蒼い瞳は心配げに俺を見おろしていたのだ。どうやらトイレの割には長い時間を要していた模様で、俺は慌てて、何か誤魔化すように色々と答えたのは覚えている。
リビングに戻ると、台所に向かっているおばさんが背中越しに、場所に迷ったんだろうとからかってきた。そんな事ないやいと俺は言ってのけ、再び、「お姉ちゃん」と共に並んで着席しようとしていた。昨日と変わらず、座ってしまえば、顔以外はほとんどが埋まってしまうような視界の世界にいたけれど、皿に並べられたお菓子の類は、未だ、手つかずなままに其処に置かれ、その、どれもこれもが、まるで見た事あるようでない、クッキーやらビスケットだったけれど、
「いただきまーす!」
俺は元気に言うと、そいつの一つに手を伸ばそうとした。
そこで俺は、何か強烈な「不可抗力」を感じたのだ。と、同時に、視界は真っ白な輝きに覆われていった。僅かに垣間見える世界の中では、台所の作業を一通り終えたおばさんが、丁度、振り向いた所で、俺の方を見やると、にこやかな笑みから一気に驚愕に変わっていて、辛うじて横をも向くと、同じく「お姉ちゃん」も驚きの顔でこちらを見ていた。俺は、そのお菓子を食べてみたかったのだ。「お姉ちゃん」たちともっとお喋りしたかったのだ。全てが輝きの中に掻き消えて、最早、泣きそうなほど残念な気持ちしか残らないでいるままに目をあける頃、既に朝日は照っていて、ヒステリック持ちの実母が、俺を叩き起こす最中の、つり上がった眼の般若のような顔で、目の前にあった。
時は現在に戻る事とする。その日の「夢」の中では、俺はだだ広い川沿いの土手にいたのだ。水面に照り返す日の光は緩やかで、仰ぐと、朝焼けとも夕暮れともつかない茜色の空が広がっていて、それらは、なんとなく見た事ある景色な気もした。友達たちとバーベキューなんてした事もあるので、
「ん……? 多摩川?」
ふと、かの地の地名を呟いてみたりもしたのだが、もう一度辺りを見渡してみると、川向うには煙突の群れなんてのも佇んでいたりするではないか。
(……あれ? あんなとこに工場、あったっけ?)
既視感と違和感の間で、それが未だ「夢」である事の認識もないままにぼんやりしていると、
「ナーモ君!」
随分と懐かしい声で自らの呼び名を聞いた気がして、俺は振り向き、
(…………!)
その姿を目にして、先ずはひどく驚いた。すぐさまに記憶は鮮明となれば、
「お……姉ちゃん……?」
ひどく、絞り出すような声が口からもれたのだ。
空一面の色を照り返すによう赤い毛の長い髪は揺れていて、蒼い瞳はじっとこちらを見つめていた。
「……ナーモ君……」
彼女は、もう一度、懐かしげに、噛みしめるようにして俺を呼び、そしてゆっくりと近づいてきた。すぐそばまで来て見上げると、
「……ここにくれば会えるって聞いて……」
あの日と同じ、しとやかな口調が響いたのだ。
「ずいぶん、お兄さん、になっちゃったんだネ……。けど、面影はある、かな」
目の前の「お姉ちゃん」は紺色をしたセーラー服姿で、年の頃で言えば十四、五歳と言ったところだろうか。尚も驚きを隠せないままに俺が凝視していると、
「そうだよね……びっくりしちゃうよね……」
彼女ははにかみながらも、話を続けようとしていた。
「けど、そんな事言ったら、あの時、私達もびっくりしたんだよ?お母さんったら、テレビ局に応募しようとか言い出しちゃってさ」
ラグがあったとは言え、こうも継続する「夢」の世界観なんてあるものなのだろうか。ますます鮮明となっていく記憶の間で、俺はこれが本当に「夢」なのかどうかすら混乱する様な気分に陥っていったのだけれど、
「元気……そうだね……」
もう一度、絞り出すようにして答えていた。
やがて、俺たちは土手の麓に、少し距離を置いた感じで腰かけるようにしていた。水面のせせらぎなんて見たりしていると、車が通りすぎる音もしたし、はるか遠くでは電車も動いているようだ。俺たちは互いに、話のきっかけを模索していたのだけれど、明らかにあの頃とは何もかもが違うのもあるし、此処は俺の役目な気がした。そうして、
「ねぇ、あのさ……」
おずおずと呼びかければ、「お姉ちゃん」はこちらを振り向いたので、
「……此処、どこ?」
どこにでもありふれていそうでいて、見た事もないような場所にいるのだから、自分としては素朴な疑問を投げかけたはずだったのだ。ただ、「お姉ちゃん」は、ただでさえ大きな瞳を、一度、更に大きくしてみせると、困惑した表情に作り替え、
「そう、だよネ……」
と、一度、呟くようにしているではないか。
(…………?)
そんな返答に困るような話をふったつもりはなかったので、そんな態度をとられてしまえば、寧ろ、こちらこそ困ってしまうというものだ。多少、間を置いた後、
「うん……ヒトが住んでいる場所、だよ」
(……いやいやいやいや。見りゃ解るし)
考えあぐねた結果、答えてきた「お姉ちゃん」の返答には、すかさずツッコミの一つもいれたかったけど、俺はグッとこらえる事にした。
「お姉ちゃん」は、思い詰めたような顔をして、目の前の水面を見つめ続けている。とりあえず俺は頭をかいてみせたりしながら、次の話題はどうしたものかと、多少、途方にくれるような気持ちもないわけでなかった。
(…………)
「…………」
互いの沈黙だけが茜色の空間の中を漂っていた。ところで、今は何時なのだろう。と、そこで、この風景の時間帯にはどのみち不釣り合いなアラーム音がどこからともなく聞こえてくるではないか。すると、間もなくして、俺の視界の周りが白く発光していくのを感じたのだ!
(…………!)
あの日の記憶の何もかもが鮮明となった今、この「現象」が言わば何を意味しているかを、俺は経験則から感じ取っていた。すぐ側にいる「お姉ちゃん」を見ると、更に思い詰めた表情をして、既に立ち上がりこちらを見つめているところである。つられるようにして俺も辛うじて立ち上がると、あの日、見上げたはずのお姉さんは、今じゃこちらが見おろす、まだあどけなさすら残る少女の姿だった。
「……! また、会えるのかな……!」
何故か会話する事すらも苦し気にしながら、全てを悟った俺はなんとか口にすると、
「会えるわ……! 会わなきゃだめなの……! ナーモ君……!!」
今にも白光の中に覆われていこうとする俺に、「お姉ちゃん」は語り続ける。
「言われた事、伝えるね! あなたはダイモスで私はフォボス! 二つの、えいせ……じゃなかった……! 二つの、月? なの……! 忘れないで……!」
そして、こちらを見つめ続ける彼女と、その背後に広がる茜の風景が、全て白い光の中に隠れた後、自らの瞼が閉じている暗闇を感じ取ると、ブォオオオオオオオ! などという、爆発した掃除機の音と共に、俺は目覚めたのだ。目覚めたとは言え、自分の体は発光していて、それは自分の部屋のアパートの天井の木目すらはっきり確認できるほどだった。そして、未だ金縛りすら解けない最中、万年床の下となっているはずの背中越しには「お姉ちゃん」の指先を感じていて、何度かためらった感触は、最後、「またね」と、文字を描いたのだ。
途端に光は闇へと返り、さっきまでバッサバッサと舞い散っていた雑誌やエロ本やDVD、CDの類が床に落ちていくのを感じた。
ガコーン……と、とうとう愛刀であるギターが鈍い音を立ててコケたところで、俺は慌てて飛び起き、スマホのアラームを舌打ちしながら消し、楽器の無事を確認しつつブラインドを開けると、陽の光が、男の一人所帯の部屋の中を照らした。
(…………)
物があまり置いてない(買えない)一人暮らしだからってのもあるけれど、常日頃からそこそこは片づけてあったはずの、ロフトのついた六畳ほどの間取りは惨憺たる有様となっていて、
「……夢か……?」
なんて、たった一言ではすまされないような現状が、起こった出来事を物語っていた。
(…………)
だが、今、この状況をどうこうできるわけでもない。今日も俺には生活が待っているのである。ゴミ屋敷みたく化してしまった床をすり抜け、ユニットバスとなっている洗面所の灯りをつければ、中年手前となった、痩せ型の男の顔が鏡に映った。
俺の名前は貴羽 朋也(きば ともなり)、二十九歳。三十歳という大台にカウントダウンが始まった難しいお年頃だ。夢は未だにバンドマンで食ってく事で、ただ、先日もオーディションに落ちたばかりで、それをきっかけにして、長年の苦楽を共にしたバンドメンバー達とはゴタゴタあり、とうとうバンドは解散となってしまった、正に最悪のタイミングでの自称ソロアーティストデビューとなってしまった真っ只中の男であり、オッサンである。
今日もスプレーから泡を頬に塗りたくり、髭を剃るところから俺の一日ははじまる。やがておもむろに台所で湯を沸かし、コーヒーを淹れ、手にしたカップからぼんやりと湯気立つ香りを見ていると、記憶は反芻されていったりして、
(……フォボ? ダイモ? ってなんだ?)
聞き慣れぬ単語は、正確には聞き取れてはいなかった。
(……二つの月? ……だっけ?)
この時の俺の中に、意味深な内容は、全く響いてはいなかったのだ。ただ、一つだけ気になった事があって、それは「お姉ちゃん」が着ていた紺色のセーラー服のデザインの事で、今でこそ(未だに)、単なる音楽バカとなってしまった俺だが、大学まではしっかり行ったし、そこでは歴史学を専攻していたので、今日日、あんな古めかしいデザインの制服の学生さんには、少なくとも俺はお目にかかった事はない事も相俟って、
(……あれは……旧制の……高等女学校じゃないか……?)
ぼんやりとそんな事をよぎらせてみるのであった。
大学時代、今のままのぬるま湯みたいな毎日が続くならと、院進学のために図書館にこもって受験勉強をしていた事がある。まぁ、先輩諸氏の方々の、そのハードな研究漬けの日々の大変さの話を聞いたら、一気に熱意もしぼんだというものだが、その時に見た資料の一つに、戦前の女子中学生、ならびに女子高校生に価する女の子達の写真を眺めた事があり、その時、「お姉ちゃん」の着込んでいたそれと瓜二つの雰囲気のある制服を見た気がするのだ。
(……ナーモ君、って言ってたな……)
湯気の中に記憶は更に反芻されていく。小さい頃、俺は自分の名前を正確に発音できなかった。挙句に名前の一部が逆になっちゃってて、気づけば、未だに俺のニックネームと化していた呼び名が「ナーモ」だったのだ。
しかし、不思議な事もあるものだ。それこそテレビ局にもっていってもいいネタかもしれない。
「…………」
思い出しているうちに、ひとごこちすらつく気持ちになっていたが、おもむろにスマホの時間表示を眺めると、
「…………やば!!」
俺は手のひらの中にあったコーヒーを一気飲みして、玄関先へと駆け出した。夢に生きる事を選んだ俺は、家族たちとはとっくの昔に絶縁となっていて、霞を食うだけで生きていけるならそれに越した事はないのだけれど、世の中、そうは甘くない。ましてや、今日は掛け持ちしているバイトがダブルブッキングしている日で、自由と食ってくためとは言え、毎週、どっかしらで試練の日はやってきた。
そして、その日、夜遅くまで帰ってこれなかった俺は、ヨレヨレの体で部屋に上がり込むと、なんとかシャワーだけを浴びて、片づける気力もギターの練習もままならないままに、布団に覆いかぶさると泥のように眠ってしまった。「夢」の続きを見る事もなく翌日もやってくれば、日常は元からあったように俺を追い立てていき、いつしか俺自体もそんな「夢」の事など忘れてしまっていったのだった。
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