参・謎の世界から

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参・謎の世界から

 ライブに、バイトに、忙殺されるような俺の日常は戻っていった。加齢への恐怖からくる焦燥感は、俺をオーディションへと駆り立てる衝動すらもすぐさま舞い戻ってきた。あんな夢か幻か、意味不明な出来事に考えをよぎらす猶予など、俺には微塵も残っていなかったのだ。あれからそんなに日数も経っていなかったのだけど、やっぱり夢か幻だったんだ、なんて思い直すようにして気持ち的には終わらしていた、そんなある日の事だった。今まで、予選の一次止まりでしかなかった俺が、はじめて二次予選なるものに挑戦できるチャンスを獲得していたのだ。当日、夜に行われる選考まで、歌う喉も、奏でる指先も、しっかり暖めてから向かおうと思っていた俺は、スタジオを予約していた。出かけるまで気合は充分にして、深呼吸を繰り返していた、その時の事だった。  ピーーーーーーーーン……! とした、耳鳴りが通り過ぎていったのと同時に、軽い電流のような感覚が体内の中を駆け巡ったのを感じたのだ。 「……?」  一瞬、俺は、首をひねって、自分の身に何が起きたのかを訝し気に見つめたが、 (……初めての事だしな。想像以上に緊張してんのかもな!)  なんて、思い直す事にした。そして、刻一刻と時間は通り過ぎていき、 「……よっしゃ」  言い聞かせるようにすると、ギターケースを背負い玄関へと向かったのである。  ドアを開ければ、秋の昼下がりの中の、ひなびた通路とアパートの群れだけがいつものように広がっている、そのはずだった。 「…………」  目の前に佇むその存在を目視した時、俺の顔は、とっくに自分の理解力を超えてしまっていて、ものすごく無表情になってしまっていたと思う。  なんと其処には、いつぞやの紺色のセーラー服を着込み、茶色の革製の学生カバンを両の手にもった光野リーンが、くたびれた錆だらけの通路の上に立っていたのだ。そして、ドアを開け、そのまま動かなくなってしまった俺を前に、光野リーンは、しばし、視線をキョロキョロと動かし続けていたが、 「えっと……学校、お昼までだったし……」  だとか、 「あの……私も、本当、なのかな……とか思ってたし、ね……」  だとか、 「えと……、こ、こんにちは!」  挙句には、基本の挨拶までされて、長い赤毛の髪が一気にしな垂れる有様だった。と、そこで俺は漸く我に返り、慌てるようにして部屋を出ると、 「いやいやいやいや! 意味わかんないんだけど!」  最早、狼狽は施錠の音を、やたら無駄にガシャガシャと鳴らさせ、相手の顔も見る事もできないままに、背中越しに答えるのが精一杯だった。 「……てか、今日、俺、夜まで帰ってこないよ?!」  漸く、鍵を閉め終えると、尚、振り向く事はできず、俺は早く此処から逃げ出したくてしょうがなかったのだ。 「あ、あの……!」 「はいはーい! じゃあねー! おつかれーい!」  尚も、光野リーンは続けようとしたが、俺は、目も合わせずにそそくさとスタジオに向かってしまった。  夜、虫すら群がる通路の灯りの下に、未だ、光野リーンがいるんじゃないかと思うと、心底、怖かった。  カン……カン……カン……カン……いつもなら、威勢よく駆け上がる階段の足音すらも、一歩一歩を踏み出すような間の取り方すら、長くあったりしたのだ。  やっと、部屋に続く通路が視界に開けたが、そこには何もない状態を確認すると、俺は、心底安心した。 (…………)  安心したと、同時に、今日も審査員にボロクソに言われた傷が心の中をえぐり、しかも、演奏中、大事な所で、歌詞をど忘れするという大失態も思い出すと、 「……(次は)ない、な」  自嘲しながら鍵をあけ、溜息のような音をたてながらドアを動かしていくと、くたびれたようないつもの玄関がある、そのはずだった。出迎えるようにして置かれていた何足かの靴の間には、見慣れぬ紙切れを見たのだ。 (…………)  おもむろにして拾うと、そこには学生時代の授業中、よくクラスメイトの女子たちが、交換するようにやっていたメモのやり取りを独特の折り方で畳むようにしてあった紙と、全くおなじものが、ドアのポスト口から投函されていたのであった。目の前にかざせば、そこには随分と可憐な文字で「ナーモ君へ」などと書かれているではないか。 (…………!)  目を見開いては、驚くままに、とるもとりあえず俺は部屋の中へと急いだ。ギターを部屋に置けば、万年床の上にどっかと座り、恐る恐る、そのルーズリーフの一枚を広げてみたのだ。其処には、宛先と同じような可憐な文字の文章が続いていて、最早、生暖かい昼下がりに起きた出来事が、どの一つも、錯覚でもなんでもない事を物語っていたのであった。   ナーモ君へ   お仕事だったんだね。突然来ちゃって、ゴメンなさい。けど、折角だし、ナーモ君の住む街を観光していく事にしました。   ナーモ君は帝都に住んでいるんだね。私も何度か遊びにいった事があるよ。あっ。そっか…。私の所の帝都だね(笑)   けど澁谷でお買い物するくらいだから、高円寺はとても新鮮でした。帝都に、こんな面白い街があるなんて知らなかったな。   ライブハウスもいっぱいあるね。私は入った事がないお店です。ナーモ君にはぴったりの街なんだろうなって思いました。   私の知っている街の風景と似てるようで、ほんと、どこかが違うよね。びっくりしたのは、リムレーンが空の中に微かに見えた事です。   あんなのはじめて。   女の子たちも、かわいいね。あんな風にスカート短くしてる子、はじめて見ました。   かわいい雑貨屋さんがあったからお買い物しようと思ったんだけど、私の所のお金じゃ、だめみたい。ちょっと恥ずかしかったな。   けど、LINEもできなくなっちゃったんだけど、写真はたくさん撮ったよ。   皆には見せられない秘密の写真になっちゃうけど、いい思い出になりそうだよ。   もし、ナーモ君が、こちらに来てくれるなら、「世界越え」する時はひとけのない場所を選んでね。   みんながびっくりしちゃうといけないと思うから。じゃあ…またね。   リーンより かしこ           (…………)  とりあえず、文面を見て俺の心の中によぎった最初の感想は、なんの土地勘もない女の子を、知らない街に一人にさせたという多少の罪悪感であったけど、それから引っ掛かりを感じたのは、 (……帝都?……澁谷?……世界越え……?)  という独特の言い回しと文体だった。確かに、今日日、あんなにスカートの丈が普通な女子学生も珍しい。そして、日本人なのに、何故かお金は外国のお金(?)しか持ち合わせておらず、当たり前のようにスマートフォンは携帯しているようだが、どういうわけか電波は繋がらないらしい。  相変わらずの謎が謎を呼ぶ展開に、 「あいつ……いったい、なにもんなんだ……?」  結局、呻くように口についたのは、相手の正体があまりにも掴みかねる、素朴な疑問でしかなかったのだった。  数日が過ぎた。エントリーしていたオーディションの二次通過者の名前のリストが、オフィシャルのHPにて発表されていて、案の定、其処には俺の名前も写真も載っていなかった。わざわざ不合格通知のメールまで送られてきたけれど、スマホの画面をなぞれば、俺は見る前に削除し、晩には、コンビニで酒をしこたま買い込んで、自室にて「一人残念会」をはじめたのだ。テレビなんてつけつつ、番組にツッコミや相槌もいれたりしながら、最初は陽気にはじめた一人飲みのはずだった。 (次回こそやったるぞー! 俺!) (おー! 俺!)  改めて自分で自分に発破をかけては発奮もしたりしていたが、次第に、それは審査員たちへの悪態に変わっていき、徐々に、気分の落ち込みすらも感じていったのだが、やがて、あらゆる事がどうでもいいくらいに気分は大きくなっていったのだった。そして、つい、ふと、先日の、不可思議な現象の事を俺は思いだしていたのだ。確か、魔法使いみたいなババアは、念ずればどこかに行けるとか云々、言っていた気がする。 (…………)  つい、この間会ったばかりの光野リーンの面影がちらつく俺は、もしかしたら既に老害の片鱗すらも見せ始めていたのかもしれない。今、この場で、俺と出会えば、あの手合いの小娘なら、あまりの酒臭さとタバコ臭さに閉口し、顔をしかめるのではないだろうか。 「フン……!!!」  鼻で笑うようにすると、俺は、そんなしかめ面を心底拝みたくなっていた。 「ふぉおおおおおおおおおおお!!」  そして、立ち上がり、大昔に流行ったようなカンフー映画の物まねなんてしてみながら、俺は、ものすごく邪な理由で光野リーンの、あの清楚そうな小娘の顔を思い浮かべ、 「……ガキが……!」  おぼつかない足元のままに、顔を真赤に、すっかり目を座らしながらの口からでた言葉は、自らに何も悪い事をしていないはずの子供への悪態であったのだ。  酒は、友達たちとワイワイガヤガヤと呑むのに限る。それは俺も頭では解っていた。ただ、こんな日に、仲間と飲んでも、からみ酒になるだけで、俺は、それが理由で今まで何度も人間関係に失敗していた。だが、呑まずにはいられない日というのが、厭でも存在し、だから、こんな日は、ひたすら一人で呑み続けるのだが。  ただ、時に、一人飲みというのは、自らを内観するスパイスにもなったりもするので、今日もそれを期待したのだが、作用は全く最悪な方に動いてしまい、今、此処にいる俺は、酔いどれの、めんどくさいオッサンでしかなかったのだ。そして、それは、悔しさから来る多少の人恋しさもあったとは言え、九割九分、冗談でとった行動のつもりだったのだ。  今や、みるみるうちに自らの体が発光していくのを、俺は目撃していたところであった。 「……あれ?」  ただ、もう、何度目かの現象に、アルコールの酔いと、人生への葛藤故のやぶれかぶれも手伝って、鼻を鳴らして大笑いするだけだった。そして視界は真っ白な世界の中に掻き消え、しばらくすると、靄が晴れていくかのように変化が生じていったのだ。  先ずは目についたのは、大昔にも見た事のある二階へと続く大きな階段が暗闇の中にたたずんでいる姿で、更に二股に分かたれた段差の壁面に取り付けられている灯が、随所、各所で、わずかな照明の灯をかざしていて、 「…………」  天井を見上げてみると、何の輝きも成していない巨大なシャンデリアがじっと沈黙しているかのようだった。 「……ナーモ君!」  そして呼ばれた方を振り向けば、部屋着を一枚羽織ったパジャマ姿の光野リーンの蒼い目が、驚くようにしてこちらを見ていて、 「おーう! 小娘ー! クソ元気かー? このやろー!」  千鳥足のままに、俺は、巻き舌を全開にさせながら咆哮のように答えたのだ。 「えっ……うっ……お酒、のんでるの?」 (ざ、ま、あ~……!)  また、案の定、光野リーンは思わず顔をしかめたようにすれば、俺は、闇の中の悪魔のような笑みで、心底、それが愉快であった。  困惑する光野リーンに先導されるようにして、俺はリビングへと通された。あの日は、そこまで気づかなかったが、大理石のテーブルのあるキッチンテーブルのさらに奥には、大きなカウチソファのある居間が存在していたのだ。光野は、次々に部屋に灯をつけると、俺にソファに着席するように促した後、すっかり困った風に冷蔵庫のドアーをあけていて、 「なぁ~、母ちゃんは~?」  完全無敵の酔っぱらい状態は、最早、どこまでも慣れ慣れしすらあった。 「……出張、です!」 (ひぇ~、おっかね~)  その後ろ姿から繰り出される返答には怒気すら含まれていて、俺は、尚も、ヘラヘラと、心底、愉快な気持ちになった。次に、目の前のテーブルに置かれたリモコンをとると、おもむろにテレビをつけ、チャンネルを変えつつ、 (……てか、やっぱ、どっかの地方都市なんじゃねーの、ここ)  様相がハイソなだけで、ここにあるのは、家ならどこにでもあるような間取りにあるように思えていた。音楽鑑賞を楽しむのであろうオーディオ機器など、まるで大昔の蓄音機の様なデザインだったりで、余計、おしゃれに見えるほどだ。 (……ん? 誰? これ。何て番組?)  大きなテレビ画面に映ったのは、見知らぬタレントであったりもしたが、なんの変哲もありはしない。 「はい……これ……」  其処へ光野リーンは呟くようにして、ボウルに一杯した氷の山とグラスに入った水を、俺の前のテーブルに置いたのだ。 「え~! なんでよ~! 母ちゃんのお酒とかは~? ないの~?!」  目にした俺は年甲斐もなくだだをこねはじめ、 「えっ……確か、棚に……って、な、ナーモ君! 顔、真っ赤っかなんだよ!? それ以上はだめ! のんじゃいけませんっ!」 「…………」 (……な~んで、こんな小娘にまで説教されなきゃなんねーのよ……)  テーブルをはさんだ向こうに立ち尽くしている、遥かに年下のパジャマの剣幕に、俺は圧倒されるのと同時に、急激に不機嫌にもなっていった。 (…………)  やがて、カウチにあった枕の一つを手に取り、抱え込むようにすると、俺は、口をとんがらすようにしては、ごにょごにょと、自分がいかに音楽活動を頑張ってきたか、そして、もう、どれだけ後がないかなどと言う事をとうとうと語りはじめたように思う。視線は、沸き上がる悔しさと焦燥の間の涙でぼやけていき、猫背となった視界の先で、全く、無関係な少女の足元が当惑していた。  そして翌朝、と、言っても、最早、昼に近い時間帯だったが、俺は自室にて目が覚めた。目の前には昨夜呑んだ空き缶が、ゴロゴロと転がっていて、 「なんだ……夢か……」  手元に手繰りよせたスマホの画面で時間を確かめると、どこにでもあるような夢オチな気すらして、安堵すらしたくなってくる気持ちになっていたのだ。 (…………)  とりあえずシャワーでも浴びてこようかとした時だった。ふと、片方の手の中に、まるで何かを握らされた感触がある事に気づいたのだ。 (…………)  手のひらを広げると、小さな紙切れには   飲み過ぎはいけません!  リーン  という走り書きがあり、起き上がった拍子に床に落ちたのは、すっかり生ぬるくなった、見慣れぬ氷枕であったりで、 (…………!)  それらの何もかもが夢じゃない事を物語っていれば、俺は改めて仰天した。
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