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信吾と弘子は、大学時代の共通の友人を介して知り合った先輩と後輩だった。出会った当時、信吾はすでに教師として働いていたが、弘子はまだ大学二年になったばかりだった。二人は間もなく惹かれあい、弘子の大学卒業を待って結婚した。誰が見ても似合いのカップルだった。すでに両親ともに亡くしていた信吾は、祖父から受け継いだ家に弘子を迎え、そのまま新婚生活を送ることになった。
早くに家族を亡くしていた信吾の孤独がそうさせるのか、あけっぴろげな性格は、常に誰かしら辻本家に出入りしているという習慣を作っていた。大学時代の先輩や後輩、学校の同僚教師や生徒まで次々と押しかけてきた。さすがに、新婚当初こそみな遠慮したものの、弘子が嫌がらないと知ると、たちまちこぞってやってきた。
それでも、独身時代に比べると、半分に減ったと信吾はいう。
「家主の俺がいないのに、勝手に家に入って茶の間で寝てるやつとかいたからなぁ」
呆れたものである。
鍵はどうしたのだと聞くと、縁側に面した掃き出し窓の戸袋側の二枚はカギが壊れていることを、長い付き合いの常連はみな知っていて、そこから入って来るのだという。不用心にもほどがあるが、弘子も何となく、壊れた鍵を積極的に修理しようとはしなかった。隣近所や親戚縁者の誰それが、常時出入りしていた田舎育ちの彼女にも、辻本家のそんな習慣にさして抵抗がなかったのである。それに、弘子自身は一度も、家人がいない間にちゃっかり茶の間で寝ている不届きものに出くわしたことがなかったからだ。
信吾がいないときは専業主婦の弘子が家にいたということもあるが、年に二度はそんなことをしていた非常識な常連も、自由気ままだった家主の結婚を機に、遠慮という常識を発動することにしたらしい。
都内の外れとはいえ、それなりの資産価値があると思われる一軒家は、使いこまれた風格が家に重みを与えているというより、あちこちガタがきてスムースに開け閉めできない襖や、傷だらけの柱や雑草交じりの狭い庭は、家主の親しみやすさや温もりを感じさせるらしく、なんだかんだと他愛ない理由を作っては、みな安酒や食べ物を持ってここをたまり場にしたのだった。
そんな大勢の客の中に、山本綾乃がいた。
信吾がクラス担任を受け持つ、高校二年生の17歳で、おとなしく控えめだったが、誰もが振り返らずにはいられないほどの美少女だった。
いくら慣れているとはいえ、弘子にとって最大の戸惑いは、信吾の同僚や友人たちより頻繁に訪れる教え子たちだった。
思春期の子どもを大勢相手しなければならないというのは、時に大人顔負けの修羅場に遭遇することがある。しかし、考えてみればそれもそうで、修羅場というのは自分の感情をうまくコントロールできない未熟さが引き起こすトラブルであって、成熟した大人であれば、修羅場になどなかなか発展させないものだ。
そんなわけで、子どもたちはしょっちゅう、誰それと喧嘩したといっては、血だらけで腫れあがった顔のまま転がり込んできたり、親と喧嘩して飛び出してきたと、いわゆるプチ家出の先として転がり込んできたのである。
当然、なかには女生徒もいたので、そのたびに弘子は肝を冷やしたものだが、信吾は慣れたもので、喧嘩して怪我をした者には手当を、家出してきた者には、自宅への連絡と、安全な保護を約束した。親にしても、どことも知れない怪しげなところに出入りするよりはと、恐縮しながらも、信吾を信頼してわが子を委ねたのである。
しかし、女生徒はそうもいかず、信吾が結婚するまでは根気よく説得し、親に連絡して迎えに来させるか、信吾が送って行くかしたが、弘子が嫁いできてからは、いいことなのか悪いことなのか、親への連絡係を弘子に押し付け、女生徒も気楽に自宅に泊めるようになってしまった。
まあ、そんなことはそれほど滅多に起きることではなかったが、そんな忙しくもめまぐるしい暮らしの中で、弘子は間もなく妊娠し、尚樹を出産した。
日々、そう煩わしいことばかりと言うわけでもなく、やってくる信吾の教え子たちはどの生徒もみな、生まれたばかりの尚樹を実によくかわいがってくれた。生徒たちの誰かが遊びにやってきたときは、弘子はむしろ、育児の煩わしさから逃れられたといえる。丁寧に教えれば、赤ん坊の世話はみんな彼らが進んでやってくれたのだ。
そして、まだ赤ん坊の尚樹の小さな温かい頭に、顔を寄せて一緒に眠る高校生はみな、普段よりずっと幼く見えた。
社会性に乏しい彼らは、まだ大人のような、よく言えば理性、悪く言えば自己保身を働かせるということが極端に下手だ。そして何よりも、トラブル回避のために取れる選択肢も、有益な情報を取得する方法もあまり持っておらず、おまけに揃って拙い。これだけインターネットが身近になっていてもなお、本質的なことはあまり変わらないのである。子どもは子どもだということだ。有益な情報を取り出すには、知恵と経験が必要なのだ。
信吾の生徒からの絶大な人気の秘密は、そこを具体的に丁寧に教えたことである。おためごかしのきれいごとも言わなかった。そして何より、良くも悪くも正直だった。
綾乃が初めて辻本家を訪れたのがいつだったのか、弘子はもうはっきり覚えていない。他の常連生徒たちの中に混じっていたように思う。
いつものように大勢で談笑している生徒たちの中に、ずいぶんきれいなのに、なんだか薄汚れた子がいるな、と思った。それが山本綾乃だった。具体的にどこかが汚れていたわけではない。サラサラと流れるまっすぐな茶色の髪はべたついていないし、ソックスに穴が開いていたわけでもない。しかし、なぜか全体的に薄汚れている。その何とも説明のつかない不潔感で、せっかくの美貌を台無しにしている、そんな第一印象だった。
それからは、時々他の生徒と一緒に来ることもあれば、ごくまれに一人でやってくることもあった。性格もごくおとなしく控えめで、当時小学校3年生の尚樹とよく遊んでくれた。弘子にもよく懐いてくれて、弘子のそばで、何かとこまごま手伝ってくれた。
尚樹は尚樹で、呆れるほどあからさまに美人なお姉さんが大好きで、一緒になって転げまわって遊んでくれるお兄さんがいないときは、ちゃっかりその場で一番の美人のそばにいる。男というのは、物心つく前から男なのである。
そんなあるとき、弘子は、尚樹がいつの間にか綾乃のそばに寄らなくなったことに気付いた。
綾乃が他の生徒たちと共に、信吾の指導の下、赤点のついた実力テストの直しをしていたときのことである。
塾にも通えず、クラスの授業についていけない生徒を、信吾はよくこうやって自宅に招いては補習を受けさせていた。ただし、学校の授業とは違い、ずいぶん砕けたものではあったが。
お客さんが来ると、何かと台所仕事の増える弘子は、座る間もなくパタパタと動き回っていたが、いつもは綾乃のそばにべったりの尚樹が、弘子のそばから離れないのである。
「あら、どうしたの、尚樹? 綾乃お姉ちゃん来てるじゃない。行かなくていいの?」
「いい」
短くそう言うだけで、それ以上説明しようとしない。
「なんかあった? あ、わかった、イタズラして綾乃ちゃんに怒られちゃったんでしょ」
「違うよ!」
思いの外強い口調で声を張り上げる尚樹に、一瞬みなの視線がこちらに集まった。
「あ、ごめんなさい、みんな。尚樹、今日はちょっとご機嫌斜めなの」
そのまま黙ってむくれる尚樹に信吾が笑顔で声をかけた。
「なんだ尚樹、学校でなんかあったか?」
尚樹は黙って首を横に振る。
「友達と喧嘩した?」
「……してない」
「俺らみたいにテストの点数が悪かったんだ?」
「ちがうよ!」
「あ、わかった、好きな女の子と喧嘩しちゃったとか?」
みなの悪気のないからかいの言葉に、いちいち反応してムキになって否定する尚樹だったが、とうとう我慢できずに腹を立て、
「もういいよ! みんな嫌いだ!」
というと、足音を鳴らしてその場を離れると、部屋に閉じこもってしまった。
今にして思えば、綾乃を巡るあの不幸な出来事の、それが最初の兆候だったのかもしれない。あの時、弘子も信吾も、もっと真剣に尚樹の話に耳を傾けていればよかったのだ。そうすれば、綾乃が抱えていた真っ暗な闇に、いち早く気付けたかもしれないのに。
そうすれば、あの不幸は避けられたかもしれないのに―――。
**
「辻本さん」
弘子が過去を覗きながら駅に向かって歩いていると、かつての名字で自分を呼び止める声がして振りむいた。
制服姿の少女を見て、弘子は一瞬綾乃が立っているのかと思って凍りついた。もちろんそんなはずはない。
「的場さん……?」
笑顔でこちらに向かってくる奈々の姿を見て、改めて綾乃には似ても似つかないことに気付いた。
「今の名前知らなくて、なんてお呼びしていいのかわかんなくて……。すみません、もっとお話ししたくて、待ち伏せしちゃいました」
奈々は悪びれもなくぺこりとお辞儀した。
少し考え、腕時計を見て時間を確認すると、
「あ…じゃあ、少し待ってくれる?」
奈々を待たせて、弘子は美弥の携帯に電話した。間もなく、「ハイ! ママ?」という美弥の幼い声がする。
「美弥、今どこ? お外にいるの? ごめんね、ママ、今日ちょっと遅くなる。夕飯までには帰るから一人で待ってられるかな?」
「うん、大丈夫! 帰りに何かお土産買ってきて!」
わかったと言って携帯を切ると、非難のこもった奈々の眼差しが弘子を見つめていた。
「父親の違う、辻本…尚樹くんの妹さん、ですか?」
「いいえ、私が産んだ子じゃないの。ちなみに七歳の女の子。今の主人の連れ子よ」
わかりやすい奈々の様子に苦笑しながら、弘子は奈々がどういう話を聞きたがっているのかわかるような気がした。とりあえず、どこかでお茶でも飲まないかと誘った。
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