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美弥の冒険
実はそのころ、美弥はお茶の水の駅から電車に乗ったところだった。弘子の電話を受けた時、あろうことか、まだ駅のホームにいたのである。電車は上り下りともにまだホームにはおらず、うるさい場内放送も発射のベルも奇跡的に沈黙したままだったので、美弥が駅のホームで電車を待っていることが幸いにもばれなかった。
美弥は、数日前からママの様子がおかしいことに気付いていた。いつもの本屋さんでのパートなら、ママは必ず、美弥が学校から帰って来るまでに家に帰っていたし、遅くなる時や出かけるときは必ず、冷蔵庫のところにクマのマグネットで伝言が留めてある。なのにここ最近、ママは心ここにあらずで家事は失敗続きで、こないだなんか、洗濯機に洗濯物を入れたまま、干すのを忘れていたのだ。
美弥が学校から帰っても留守が多くなったし、クマのマグネットは一週間前のメモが貼ったままになっている。
ある日、学校の先生方が、けんきゅうかいとやらで早帰りになったことがあった。パパと違って、いつもなら、学校のプリントは必ずきちんとチェックして、美弥より美弥の予定を知っているママがだ。そしてあろうことか、そのことをすっかり忘れてお出かけしようと、よそ行き姿で家を出る瞬間にかちあったことがあった。
ママは、帰ってきた美弥に気づかなかったようなので、急いで首にひもでぶら下がっている美弥特性の鍵――シマウマ柄なのだ――でドアを開けてランドセルを玄関に放り出し、再び鍵をかけて、慌ててママの後をそっとつけた。ちなみに、美弥はパパがずいぶん前に二枚持っているからとくれた、電車に乗れる魔法のカードも持っていた。カードのペンギン柄は美弥のお気に入りだ。
その時は、ばれたらそれでかまわないという気楽な気持ちだった。探偵ごっこをしているような遊び半分で、ママの後をつけたのであるが、テレビやマンガじゃあるまいし、普通の人は、自分が誰かに後をつけられているなんて思ってもみない。なので結局その時も、美弥はママに全く気付かれないまま、お茶の水までやってきたのだ。
その後、ママは大きな病院に入って行ったかと思うと、誰かの病室の前まで行って、急にクルリと美弥の方に向かって引き返してきた。この時はさすがにばれたと思ったが、素早く物陰に隠れて様子をうかがっていると、ママはやっぱり美弥にまったく気付かないまま、家にまっすぐ帰って行った。
今学校から帰ってきたばかりですという顔で、ママのすぐ後に帰って来るのはホントに大変だった。美弥はわずか七歳で、スゴイ冒険をひとりでこなしたと言えるが、このことを誰にも話さなかった。何となく話してはいけないような気がしたのである。ママの心が美弥やパパのところになく、あの薬臭い大きな病院にいる誰かのところにある――幼いながらも人一倍聡い美弥は、本能的にそのことに気付いていた。それはきっと、ママの大切なヒミツで、そのことが美弥やパパにばれたら、ママはきっとここから去ってしまう。ヒミツがばれたら、魔法はたちまち解けてしまうものだ。どんなおとぎ話も例外なくそうなっている。
―――そんなのダメ! 絶対にダメだ!
だから美弥は、巧くタイミングが合えば、こっそりママの後をつけていたのだ。見失うこともあったが、結局行先はいつも同じだった。
病室の前のネームプレートには『辻本尚樹』と書かれている。最後の字がちょっとややこしかったけど、しっかりメモして、後日、学校で先生に読み方を聞いたら『つじもとなおき』と読むのだと教わった。
そして美弥は、ついにある決意を胸にともすのだった。
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