35人が本棚に入れています
本棚に追加
不幸な少女
弘子が駅近くのカフェで奈々と向き合うと、奈々はホットミルクのカップに砂糖を入れてよくかき混ぜると、ふうふうと息を吹きかけ、ゆっくりとカップに口をつけた。一口飲んでカップをテーブルに置くと、口の端にできたミルクの白いひげを、紙ナプキンで唇の端を押さえるように拭う。
弘子は何となく、奈々のそんな仕草を見つめながら、山本綾乃のあの妙な不潔感は、普段親に殆ど構われずに育ったからなのだということに唐突に気付いた。
誰もが羨む恵まれた容姿を持ちながら、綾乃はなんて不幸だったのだろう。タイプが違うとはいえ、同じように恵まれた容姿でホットミルクを飲むこの少女は、なんて健やかなのだろう、と。
そんな弘子の思いに全く気付かず、奈々が少しムッとしたように言う。
「あ、お砂糖入りのホットミルクって子どもっぽいと思ってるでしょ? でも、私、話しにくいことがあるときは、甘いホットミルクって決めてるんです」
「あぁ、ごめんなさい。そうじゃないの。あなた見ていて、ふとある女の子のこと思い出したものだから……」
と、苦笑しながら弘子が応える。
「ある女の子……? 私、その子に似てますか?」
「ううん、全然。むしろ真逆かな」
弘子はコーヒーカップにゆっくりと口をつけた。
*
尚樹が、ある時からパタリと綾乃に近づかなくなった頃、弘子はあることに気付いた。自分の身の回りのものが、何かとなくなっているのである。それは、使いかけの口紅だったり、お気に入りのハンカチやエプロンといった些細なものばかりで、高価なものは何もないばかりか、なくなったと騒ぎ立てるにはあまりにも気が引ける使い古しだ。しかし、どれもこれも使い慣れているものばかりであるだけに、本人の弘子にとっては、案外真剣に探さずにはいられないものだった。
とはいっても、日を徹して探すほどのものでもなく、数千円ほどで買いなおしてしまえば、弘子もそんなことはすぐに忘れてしまった。奇妙な紛失騒ぎも、気付けば治まっていたからである。
そんなある日、不機嫌な信吾に半ば強引に伴われ、綾乃が、派手な衣装とどぎついメイク姿で辻本家にやってきた。学校に内緒でキャバクラでバイトしていたのだそうだ。
綾乃は母子家庭だったが、その母親も、ある日綾乃が学校から戻ってくると、書き置きひとつと五千円札一枚を残し、行方を眩ませたというのだ。
「だって、食べて行かなきゃならないし、学校行きながら昼間のバイトとか無理だし、お父さんはどこの誰かも知んないし、こうするしかなかったんだもん」
涙で滲んだマスカラと濃いシャドーで目の周りをパンダのように真っ黒に汚しながら、綾乃はひとしきり泣いた。
民生委員や児童養護施設などの職員と相談しながら、当面、綾乃は辻本家で一緒に暮らすことになった。
17歳という綾乃の年齢は実に微妙な年齢だった。未成年ではあるが、子どもとも言い切れない。この年齢の子どもに対して、行政は持て余し気味なのである。
例えば、DVの被害者を囲う女性専用シェルターには、妻である17才もいれば、母親と一緒に避難してきた17の子もいる。被害者であることに違いないが、まったく立場の違う同い年の子どもを、どう扱っていいのか、少なからず現場は混乱する。16~18歳というのは、まさに大人と子供の狭間にいるのだ。
そして綾乃が、辻本家という、とりあえず安心できる大人の元に身を寄せているという状況も、行政側が彼女の処遇を後回しにする十分な理由になった。急を要する子どもはいくらでもいる。
それはそのまま、信吾や弘子の心境ともいえた。元から来客の多い辻本家に、今更綾乃が独り増えたところで大した負担ではなかったのだ。
そして、綾乃は綾乃で、近所のコンビニでアルバイトをしながら学校に通い、最近二人目を懐妊した弘子の手伝いをしながら過ごしていれば、傍から見ればこの四人は、何の変哲もないごく普通の家族に見えるのである。
実際、綾乃の人生に於いて、辻本家で過ごしたこのわずか数か月が、人生でもっとも幸せだったのかもしれない。いつも、どこか不潔感を漂わせ、おどおどと周囲の様子をうかがうしかなかった薄幸の少女は、辻本家で暮らし始めてすぐに、本来の輝くような美貌と笑顔を取り戻した。
しかし、その一方で反比例するように、尚樹の様子が変わった。
家に帰って来ると真っ先に玄関にランドセルを放り出し、「ただいま」と同時に家を飛び出していた尚樹が、次第に口数が少なくなった。学校から帰ると、まつわりつくように弘子のそばを離れなくなった。そして頻繁におねしょをするようになってしまったのである。
尚樹の中で、いったいなにが起きているのかサッパリわからない。
尚樹の口から何かが説明されることはなかったし、信吾にそのことを相談しても、弘子が妊娠したことで少し神経質になっているのだろうと取り合ってくれなかった。
「もしかして、あたしのせいかな……?」
そう言って、哀しそうに表情を曇らせたのは綾乃である。
「あたしがこの家に来て、尚樹君、お父さんとお母さんを取られちゃうような気がしてるのかも知れない」
「ええ? まさかそんな……」
最初は笑い飛ばしていた弘子だったが、以前はあんなに懐いていた綾乃に近づかなくなった尚樹を見ていると、あながち的外れではないように思えてきた。
しかし、その責任を綾乃に被せてしまうのはあまりにも酷だと思えた。尚樹はやんちゃで頑固なところもあるが、言い聞かせてわからない子ではない。だから弘子は、時間を見ては少しずつ、尚樹に、綾乃を受け入れてくれるよう説得した。そのたびに尚樹は、固い表情ながら黙ってうなずいてくれたのである。
その日、そろそろ夕食の買い出しに行かなければならない時間だとわかっていながら、弘子はつわりがひどくて寝床から起き上がれないでいた。風邪気味で少し熱があったこともあって、うつらうつらと二階の寝室で眠っていると、寝室の外の廊下から、尚樹の怒鳴り声でハッと目が覚めた。
「ウソだっ!」
次いで、ボソボソと、尚樹に低い声で何かを語りかけている綾乃の声がする。ああ、もうそんな時間かと起き上がって寝室を出ようとして、ふと弘子はドアの前で立ち止まって二人の会話に耳を澄ませた。何か異様な雰囲気を感じたのである。
「うそじゃないよ。だって、昨夜もあんたのお父さんとお母さんが話してるの聞いたもん。あんたより、あたしの方がずっとこの家の子にふさわしいって」
「ウソだ!」
「何度言えば分るの? 嘘じゃないよ。だってあんたは男の子で何もできない子どもだから、手がかかってしょうがないってお母さん言ってた」
「バカ! お母さんはそんなこと言うもんか! おまえなんか嫌いだ!!」
弘子は、あまりのことに愕然とした。
綾乃はなぜか、この家にやってきて以来、尚樹に陰湿で執拗な嫌がらせを繰り返していたのだ。
思わずドアを開けて部屋を飛び出したとき、嫌がる尚樹の腕を掴んでいた綾乃が、驚いてとっさに尚樹の手を離してしまった。
全身の力で綾乃の手から逃れようとしていた尚樹は、その拍子に階段に繋がる何もない空間を転がり落ちた。ガタガタと勢いよく転がり落ちるものすごい音がする。
「尚樹――――!!」
愕然と凍りつく綾乃を押しのけ、弘子は一階まで転がり落ちた尚樹に駆け寄った。抱き上げると、痛みと驚きでワッと泣き出したその声にホッとしながら、額の髪の生え際から流れ出す血を見て、階段の上で真っ青になって震えている綾乃に向かって怒鳴った。
「清潔なタオルと、私がいつも使っているバッグを持ってきて! ドレッサーの椅子に置いてあるわ!」
中には財布と保険証が常に入っている。
綾乃は、パッと身をひるがえし、言われた通りのものを持ってくると、震える手で弘子に差し出した。それを奪うようにひったくると、弘子は尚樹の血を流す額にタオルを押し当て、泣きわめく尚樹を抱き上げて家を飛び出した。ちょうど通りかかったタクシーに飛び乗り、一番近い総合病院に駆け込んだ。
検査の結果、幸いにも尚樹の体のどこにも異常は見つからず、額を二針縫っただけで済んだ。
信吾にも連絡して病院に迎えに来てもらい、この展開にぐったりと疲れ果てた尚樹を連れて家に帰ると、綾乃は姿を消していた。
弘子は半ばこうなることをわかっていた。でも、優しくすることはできない。数か月間も尚樹に陰惨な嫌がらせを繰り返し、挙句の果てに怪我まで負わせた綾乃を許すことなどできないと思った。
そして、綾乃を探しに行こうとした信吾を引き留めた。
「やめて、行かないで!」
「しかし、あいつもまだ子どもなんだ。おまえの言うことがホントなら尚樹にはかわいそうだったが……」
「ホントならですって? 私が嘘をついているとでも言うの!」
「そうじゃない。そうじゃないが、今の綾乃には行くところがないんだ」
「だからなんだっていうの? あたしはもう二度とあの子を受け入れる気はないわ! あの子をここに呼び戻すというなら、私が尚樹を連れて出て行きます」
「弘子……」
「……」
弘子は両腕で自分の体を抱きしめながら、信吾の次の言葉を全身で拒絶した。
「……わかった」
信吾はそれだけ言うと、携帯でいくつか電話をかけると、その日は弘子と尚樹の傍についていてくれた。
しかし、その後、信吾の帰りがいつもより遅くなりがちだったのは、綾乃の行方を捜していたからかもしれない。
弘子はそんな信吾の心境が全く理解できなかったし、したいとも思わなかった。
そして、綾乃が姿を消して以来、ひと月ほど経ったころ、尚樹と夕飯の買い物に出かけたとき、弘子は偶然、通りの向こうを歩く変わり果てた綾乃を見た。髪は派手な金髪に染められ、危険なほどガリガリに痩せ、ひと目でわかる性質の良くない男に連れられていた。
ボンヤリとした目には生気がなく、弘子と目が合っても一瞬誰だかわからないようだったが、ふと顔を輝かせて笑顔を浮かべると、そのままふらふらと道路を渡ってこちら側に来ようとしたのである。
「―――!?」
「危ない!!」
誰かの叫び声と、トラックの急ブレーキの音が同時にした。そして、ドンッという不吉な音がしたかと思ったら、あり得ない形に歪んだ綾乃の姿が、道路の真ん中に転がっていた。
悲鳴と怒号が飛び交う中、弘子は、綾乃の血がどんどん道路に流れ出していくのを見た。何もかも一瞬の出来事だった。弘子は本能的に、恐ろしい事故現場を息子に見せまいと、とっさに尚樹を胸に抱えたものの、なにが起きたのか理解する前に気を失った。
病院で目を覚ますと、信吾の心配そうな顔が自分を覗き込んでいた。信吾の話によると、綾乃が性質の悪い連中とつるみ、危ないクスリに手を出していたらしいと説明してくれた。
その時の強いストレスが原因なのか、妊婦の約15%が経験するという不運に見舞われたからなのか、弘子は二人目の子どもをその後間もなく流産した。
そして、そこから坂を転がるように心を病んだ。
ある日、カンカンと耳障りな警報の鳴る踏切の向こうに、綾乃の姿を見たような気がして、ふらりと踏切を超えようとして引き止められた。
渾身の力で足を突っ張りながら、両手で弘子の手を掴み「お母さん!」
と叫ぶ尚樹の声で我に返った。あろうことか弘子は、尚樹の手を引いていたのである。
そばにいた通行人の非難の眼差しが冷たく刺さる。
しかし、そんなことより弘子は、自分だけならまだしも、無自覚に尚樹を道づれにしようとしたことにショックを受けた。
愕然と目を見開いて必死で自分の腕を引く、尚樹の顔が今も鮮明に焼き付いている。
これ以上、綾乃と自分の確執に尚樹を巻き込むわけにはいかない。独りで家を出ようと思うには十分な理由だと思えた。
最初のコメントを投稿しよう!