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弘子が編んだという水色の子どもっぽいニット帽をなんとなく手の中で弄びながら、尚樹は窓外の夜景越しに過去を覗いていた。
小5のある朝、目を覚ますと母は姿を消しており、父は何事もなかったように慣れない朝食づくりに励んでいた。
「お母さんは?」
と問う尚樹に、体調を崩し、長野の実家に帰ってしばらく静養するのだという父の言い分をしばらく信じていたが、ひと月ほど経って、父の大雑把な男の料理にいい加減うんざりしたころ、実は離婚したのだと聞かされた。
父が真剣に何かを話していたが、尚樹の頭を占めたのは「ボクのせいだ」という思いだけだった。
たぶん、綾乃の死が関係している。
そのころからお母さんはどんどん心を病んでいったからだ。そして、綾乃を死に追いやったのは、おそらく自分だ。
綾乃がずいぶん前から、お母さんのものをよく盗んでいたのを尚樹は知っていた。最初はゲームだと思った。だから、綾乃お姉ちゃんと一緒に宝探しゲームに参加するつもりだった。
「バッグよりいい隠し場所知ってるよ」
自分のスクールバッグにお母さんのエプロンを隠している綾乃の背中に、そう声をかけた時、振り返って驚きに目を見開いた綾乃の顔を見て、尚樹はそれがゲームではないことに気付いた。
綾乃はとっさに尚樹の腕を強く掴むと、早口の低い声で言った。
「誰かに言ったら殺す!」
その脅しが怖かったわけじゃない。綾乃のその必死さが、尚樹に口を噤ませた。以来、綾乃は誰も見ていないところで、尚樹を執拗にいじめた。
腹が立って、何度父母に言おうと思ったかわからない。でも、そんなことをしたら確実に綾乃が壊れてしまうような気がして怖かった。
そして運命のあの日、ガリガリに痩せて変わり果てた綾乃と、道路を挟んで目が合った。その途端、綾乃はフラフラと道に飛び出してきたのだ。
たぶん、もう一度尚樹に口止めしたかったのだろう。
しかし、無残にもそれはできなかった。
お母さんの肩越しに、道路にたくさんの血が流れていくのがわずかに見えた。
―――ボクのせいで綾乃が死に、お母さんはそれが悲しくて家を出てしまった。
今なら、あながちそればかりではないということはわかっている。しかし当時は、優しい両親は、子どもの尚樹を責められずにいるのだと思っていた。だから尚樹は、母がいなくなってしまったことを、子どもらしい無邪気さで嘆くことができなかった。ずいぶん後になって、父からことの真相を改めて聞かされたときには、手放しで泣きわめける年頃はとっくに過ぎていた。
尚樹はもう一度、子どもっぽい水色の毛糸帽をかぶってみた。窓に映る痩せた17才の自分は、まだ弘子から、母の愛情を引き出せるのだろうか。そして自分はまだ、それを必要としているのだろうかと思った。
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