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弘子の決断
***
駅前のカフェは、静かな曲が流れている。
手洗いに立った奈々を待ちながら、弘子の目は夕暮れを映す大きな窓ガラス越しに遠く昏い過去の深遠を覗き込んでいた。
「すみません、お待たせして」
ガタガタと椅子を鳴らしながら席に着く、奈々の明るい声にふいに現実に引き戻され、弘子は一瞬ここがどこなのかわからなくなった。
「あ、いえ……。で、あなたのお話ってなにかな?」
「あの、一言でいうと、今のご家族に気兼ねもあるだろうけど、尚樹君にもっと会いに来てやってほしいってそれだけだったんですけど、あの―――」
一瞬ためらった後、奈々が続けた。
「私、さっきも言いましたけど、何度かあの、辻本のお母さんを病院でお見かけして……」
奈々が弘子をなんと呼んでいいかわからないようだったので助け舟を出した。
「松浦よ。松浦弘子。今は松浦という姓なの」
「あ、じゃあ、松浦さん。松浦さんはどうして、病室の前まで来ては引き返すってことされてたんですか?」
「ああ……。みっともないところ見られてたのね」
弘子は思わず苦笑した。
「んー、そうね、尚樹を置いて出て行った罪悪感からってところかな。今更会いに行ってもいいのかな、とか」
「そんな。そんなのいいに決まってるのに……」
困惑して小声でつぶやく奈々を見て、家族から十分愛されて育った子なのだなと弘子は改めて思った。少なくとも、母親というものは子どもを手放しで愛し、その子もまた親の愛情を受けて育つということに何の迷いも疑いもないのだから。
「私は母子家庭で、三年前からずっと母と二人で暮らしてるんですけど、父は女性にだらしない人で、両親はそのことで家裁で離婚調停をすることになりました。母はそこでずいぶん嫌な思いもしたようで、みるみる消耗してましたが、ある日私に言ったんです。『何かひどく理不尽なことが起きて、その渦中でどれほど苦しんでも、私が悪かったんですって言うのはやめなさい』って。
『そういうのはとても簡単だし楽だし、みんな言うし、そう言っておけば、誰もそれ以上自分を責めない。だから、そう言うことで本当は、向き合うべき問題から逃げてるのよ。そんな風に思うときは逆に、私は全然悪くないって言ってごらん。それで周囲を説得してごらん。そしたら、人生の中でつらいことは大概乗り切れる』って」
「……私は悪くない?」
「そうです」
「私は悪くない……」
噛みしめるように弘子がつぶやいた。
「……」
過去から忍び寄る哀しみが、静かな沈黙を奈々と弘子の間にもたらした。そして、最初に口を開いたのは奈々だった。
「私には、母や松浦さんがどんなことを乗り越えてきたのか、どんなに想像力を働かせたところできっと追いつかないと思いますけど、でも、私は辻本のことしか知らないし、辻本にできるだけ笑っててほしい。ほかの誰かの迷惑になるかもしれないけど、でも、それが今の私の『私は悪くない』なんです」
「奈々ちゃん……」
「だから、だからできるだけ、辻本のところに来てやってください」
そう言って頭を下げる奈々を見ながら、尚樹は本当にいい子に育ってくれたのだなと思った。こんな子が尚樹のことを好いてくれるのだから。
駅の改札で奈々と別れ、弘子は家路についた。
家に帰ると、なぜか妙にテンションの高い美弥が、あれこれ話しながらずっと弘子にまつわりついてくる。それに根気よく付き合いながら、食事をさせて一緒に風呂に入った。
今日は一緒に寝たいというので、弘子のベッドに美弥を寝かしつけた。ようやく眠った美弥の寝顔を見ながら、弘子はそっとクローゼットを開き、奥に仕舞われている小さな古い箱を取り出した。一度開いたきり、ずっと何年も捨てることもできずに持ち歩いてきたものだ。
綾乃が不幸な事故で死んで間もなく、小さな小包が弘子の元に届いた。日付は綾乃が死ぬ前日のものだった。
中には以前失くしたと思っていた、弘子のささやかな私物が数点、綾乃が書いた短い手紙と一緒に、丁寧に畳まれ入っていた。
———
辻本信吾先生 弘子さま 尚樹くん
尚樹君に怪我をさせてしまったこと、いじわるしていたこと、ごめんなさい。本当にごめんなさい。
私は尚樹くんがうらやましかった。
尚樹くんが憎かった。
尚樹くんになりたかった。
先生の家で過ごした時間が、今までの人生の中で一番幸せでした。
ありがとうございました。
そしてごめんなさい。
綾乃
———
綾乃は多くを望んでいたわけじゃない。普通の子どもなら誰もが普通に持っている当たり前の幸せを望んでいただけなのに、自分はなんという取りかえしのつかないことをしてしまったのかと、その荷物は当時、弘子を痛めつけるものでしかなかった。
でもそうじゃない。私は悪くない。そして綾乃も悪くはないのだ。
けれど、亡くした命はもう取り戻せない。
寿命をまっとうすることなく絶たれる命。これ以上の不幸はない。これほどの絶望はない。不幸な死は希望を根こそぎ奪うのだ。
しかし、今ならまだ尚樹は救える。
それなら、弘子にできることはもう決まっている。
―――私は悪くない。
そう主張するのに、これほど勇気が必要だと思わなかった。寒風の中で暖かな上着をはぎ取られるような不安と震えが全身を襲う。
人は、殊勝に首を垂れる人に同情的だ。しかし、私は悪くないと大きな声で主張すればするほど、逆に味方を失ってゆく。
しかし、弘子はそうすべきだと思った。そうすることで真っ向からこの問題に向き合おうと思った。
起こさないよう、そうっと美弥の横に滑り込み、安らかな美弥の寝顔を見ながら、弘子はとめどなく流れてくる涙を抑えることができなかった。
眠っている美弥がふと寝返りを打って、弘子の胸に顔をうずめる。
無垢なその仕草がかわいくて愛おしくて、温かい頭にそっと口づける。細くて柔らかな幼子の髪をなでながら、弘子はいつまでも、美弥の暖かな寝息を感じていた。
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