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正義の味方
尚樹はさっきから、とことん困惑していた。
小学生になったばかりと思しき小さな女の子が、荷物で膨らませたピンクのリュックを背負ったまま、尚樹のベッドわきの椅子に腰かけ、さっきから黙って尚樹のことをにらんでいるのである。
「え、えーと、どこの子なのかな?」
「……」
「あ、迷子? 誰かのお見舞いに来て病室どこかわからなくなっちゃったのかな?」
「ちがう。ここであってる。おにいちゃん、つじもとなおきっていうんでしょ?」
ナースコールを押そうとして、ボタンを押す手が止まった。
「そう。でも俺はキミのこと知らないなぁ。名前だけでも教えてくれないかなぁ?」
「松浦美弥」
「まつうら……?」
確か弘子の再婚相手が松浦と言わなかったか? だとすれば、この子は母の再婚相手の連れ子なのだ。
「みやちゃん、独り? ママはどうしたのかな?」
「……いない。ひとりで来た。それに最近ママ、なんかおでかけばっかしてて家にいないことが多い」
「そ、そっか。でも、ここには一度しか来てないよ? それを怒ってるなら、だけど」
「知ってる」
「あのさ、せめてさっきから俺に怒ってる理由だけでもいいから教えてくれないかな?」
「……お兄ちゃん病気なの?」
「うん、まぁ……」
「死んじゃうの?」
「うーん、どうかな……」
美弥はようやく椅子から降りると、膨らんだリュックのふたを開けて、尚樹のベッドの上に一気に中身を広げた。小さな女の子の持ち物など尚樹には何が何だかわからないが、ピンク色を主体に、キラキラこまごましたおもちゃの数々は、おそらく、美弥が大切にしているものだろうことだけはわかった。
「……みやちゃん?」
「お兄ちゃんは、ママの本物の子どもなんでしょ?」
「え?」
「チカちゃんが言ってた。美弥はママのニセモノの子どもだから、ママはいつか本物の子どものところに帰っちゃうんだって」
なるほど。美弥がなにを言いたいのかわかってきた。
「でも、美弥それじゃ嫌なの! そんなの絶対ダメ! だからお願い、お兄ちゃん、美弥の宝物全部上げるから、ママを美弥にください! ママのこと取らないで!」
「みやちゃん……」
ベッドに突っ伏して泣く美弥に何と言っていいのかわからず、尚樹は味気ない白いシーツの上にぶちまけられた、美弥のたくさんのおもちゃの中から、プリクラの貼られたピンクのコンパクトを何気なく手に取った。
手書きの文字やハート型や花柄で彩られた小さなシールの中で、弘子が美弥と並んで笑顔で写っていた。そんな二人の後ろで照れくさそうに笑っている、人のよさそうな眼鏡の男が、母の新しい夫なのだろう。
母は幸せなのだということがよくわかった。そこに自分が割り込む隙などないのは一目瞭然だが、この小さな女の子には、それを確信することができないのだ。そしてこの幸せな少女は、自分と同じように、尚樹もまた母を欲してやまないのだと思い込んでいる。そんな時期はもうとっくに過ぎてしまったというのに。
胸の奥で何かがチクリと痛んだ。その痛みが、尚樹を少し意地悪にした。
「……わかった。でも、俺は男だからこんなのいらない。だから全部リュックに仕舞っちゃいな」
「でも……」
「その代り、美弥ちゃんにはアイスを買ってきてもらう。一階の売店の入り口に売ってるやつ。お金持ってる? 持ってないなら、ママは返してもらうしかないな」
「ううん、大丈夫! 持ってる!」
そう言って、早速病室を飛び出そうとした美弥に尚樹が追い打ちをかけた。
「チョコとバニラの二つだぞ」
すると、美弥はたたらを踏んで立ち止まると、リボンのついたやたらと大きなピンクの財布を急いで覗き込み、真剣な顔で中身を数えると、
「行ってくる」
というなり飛び出していった。
入れ替わりに奈々が入ってきた。先ほどまでの美弥とのやり取りを聞いていたようで、苦笑しながら尚樹に言った。
「あたし、ちょっと様子見てくるね」
「頼むよ」
奈々が美弥に少し遅れて売店にいくと、美弥がアイスケースを真剣にかき回していた。さり気なく横に並んでアイスを選ぶ振りをして様子を伺うと、美弥はスーパーカップのバニラとチョコを二つ掴んでレジに並んだ。
売店の肥ったおばちゃんが、アイスのバーコードをピッと読ませている間に、美弥はお財布の小銭を全部カウンターの上に出してお金を払おうとしたが、二つあると思っていた銀色の百円玉は、あろうことか片方が五十円玉だったらしい。明らかにもう五十円足りない。
「あらー、お嬢ちゃん、ママに足りない分もらっておいで」
いうなり、次のお客さんに移ろうとしたおばちゃんの前に、奈々がすかさず百円玉を置いた。
「え!?」
美弥がびっくりして戸惑っている間に、レジのおばちゃんはさっさと会計を済ませて次の客に移ってしまった。
どうしていいか、明らかに戸惑っている美弥に奈々がニッコリ笑いかけると、美弥は何かを思い出したように、パッと顔を輝かせると、ひもを通して首から下げている小さなお守りを服の中から引っ張り出した。
奈々が何をするのかと見守っているうちに、美弥はそのお守りの中から、小さく折りたたんだ千円札を一枚取り出して、奈々に差し出した。
「あの、このお金……」
奈々がそうだったように、美弥も両親から、簡単に人にお金を借りたり貸したりしてはいけないと、厳しく言われているのだろう。そして、そんな彼女が困らないように、お父さんかお母さんのどちらかが、いざとなったら使えるようにと、お守りの中にお金を持たせているのだ。
奈々は大いに感動してしまった。そんな大切なお金を受け取れるわけがない。
「これは千円だから、お姉さんもらえないなぁ。さっきお姉さんが出したのは百円だったもの」
「じゃあ、売店のおばちゃんに崩してもらいます」
美弥が再び売店に戻ろうとしたので、奈々は慌てて引き止めた。
「あ、待って! この次ここで会ったときに返してもらうっていうのはどうかな? 今度はママと一緒に来ればいいじゃない」
美弥は奈々のその言葉に戸惑った。
なぜなら、美弥がここにきているのは誰にも内緒だし、このアイスをなおきお兄さんに渡してしまえば、美弥がこの病院に来なければならない理由はもうないし、無尽蔵だと思っていたペンギン柄の魔法の電車カードには実は限りがあって、怪しむパパにうまく言って――ママを騙すのはほぼ不可能なのだ―――使い切ったカードにチャージしてもらうのは本当に大変だったのだ。
「でも……」
美弥の戸惑う様子に、奈々は眉間にしわを寄せ、腕を組んで考えた。
「……わかった! あ、その前に、お名前なんて言うの?」
「松浦美弥……」
「じゃあ、美弥ちゃん、このお金は神様からの贈り物だって思うのはどうかな?」
「え?」
「あ、言い過ぎかな……」
いくらなんでも自分を神様とは言い過ぎかもしれない。
「うーん、えーと、たとえばぁ、今、たまたま道で百円拾ったらどうする? お姉さんは使っちゃうよ。確実に。だって、そのアイスはママを守るために絶対に必要なんだもん」
「うーん……。でも、お姉さんはどうして美弥がママを守るためにアイス買うんだって知ってるの?」
「あ、それは、さっき美弥ちゃんが、病気のお兄さんからアイス買って来いって言われてるの偶然見たから」
「ふーん」
「で、それを見てお姉さん、断然美弥ちゃんのこと助けてあげたくなっちゃったわけです。病気だからって、ひどいお兄さんだよね? そう思わない?」
「でも……」
奈々は、さっきからなかなか陥落しない美弥の頑固さに感動すら覚えていた。美弥はとても丁寧に根気よく躾けられているのだ。
「でも、ホントはお金を落とした人はどこにもいなくて、美弥ちゃんに足りない分のお金をぜひともあげたいっていう、親切なお姉さんがここにいるだけなのだ!」
そう言って奈々は、正義のヒーローのように、両手を腰に当ててポーズを決めた。
「……ふふ」
美弥が、奈々のそのおどけたポーズに思わず笑う。
「お姉さん、この次美弥ちゃんにお金出すときは、ちゃーんと返してもらうって約束する。もうこれっきり。ね? 誰も困ってないでしょ? だから、お守りの中にあったその大切なお金はもう一度きちんとしまって、今日だけはお姉さんの言うこと聞いてくれないかな? 絶っ対、誰にも、内緒にするから」
「……わかった。ありがとうお姉さん。アイス溶けちゃうから、もう行くね!」
そう言って、美弥はようやく笑顔で受け入れてくれた。
その夜、尚樹がアイスを食べようと冷蔵庫から取り出したところで、疲れた顔の信吾がやってきた。
「お、アイスか。珍しいな」
「どっちがいい?」
信吾にチョコとバニラの二つを差し出して聞いた。
「じゃあチョコもらう」
信吾は気楽に受け取ると、早速蓋を取ってアイスを食べ始めた。
「食ったな。共犯だからな」
バニラアイスを食べながら尚樹が言う。
「? 何の?」
「母さんの値段は、アイス二個分ってことだよ」
「????」
「つめて。口内炎にしみる」
美弥は、寝る前にこっそり飲んだジュースのせいで、おしっこがしたくなってふと目が覚めた。眠い目をこすりながら一階に降りてゆくと、パパとママが真剣な顔で、テーブルに向かい合って何か話し合っている。美弥からは、ママは背中を向けていて顔が見えない。ママの後頭部の向こうに、わずかにパパの顔が見える。
「―――お願いします。私と離婚してください」
「―――え?」
驚きに見開かれたパパの目を見て、美弥は『リコン』はただことじゃないことなんだと思った。
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