ジレンマ

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ジレンマ

 グレーや白が基調の、味気なく殺風景などこかの施設だった。窓から見える景色も、この施設と同じぐらい味気ない都会の景色で、ビルの合間からわずかに覗く空は、薄ぼんやりとした白っぽいグレーだ。 ――ああ、またこの夢か……。  新庄薫はうんざりした面持ちで夢の中でそう思う。  場面が切り替わり、広い会議室の中では、メモやレコーダーを手にした記者たちが新庄を囲んでいる。  少しでも新庄の目線が下に下がろうものなら、カメラのフラッシュは合図でもしたように一斉に瞬く。新庄がうつむき加減にうなだれているように見える角度を、何とか捉えようとしているのだ。  新庄は、毎回この夢の中で、カメラマンの期待に応えてやろうか、それとも顎を上げ、傲然と前を見つめたままの姿勢を保とうかと迷っている。  そして、どちらも無意味なことに気付いて苦笑する。夢の中だからではない。この場にいるのは、新庄が本当には何を考えているのかなんて、どうでもいいと思っている連中ばかりだからだ。 「あー、ところで新庄先生、命の選択が、神様でもないあなたの手に委ねられているお気持ちはどんなものですか?」  こめかみをペンの尻で掻きながら、のっぺらぼうの記者が最初に質問する。 「日本産婦人科学会は、あなたの処置を認めていませんが、それでも尚この手術に拘るのは、傾いたこの産院の再建がかかっているからだという噂がありますが……」  ずんぐりと太った記者が立ち上がり、ソースも曖昧な噂の真相を明かせと新庄に迫る。 「母親のお腹の中で安らかに眠っている胎児の心臓に、毒物を注入するお気持ちは?」  ひょろひょろと背ばかり高いこの記者は、もはや人間の形すら留めていない。  もう何度この夢を見たことだろう。新庄は、毎回毎回繰り返される記者たちの質問に、もう何度目かの答えを言おうと口を開く。 *  今から約30年ほど前、新庄は産婦人科学会が認可していないとある手術を断行した。それを論文にまとめて学会に提出したことをきっかけに、世間の知るところとなり、新庄は日本中から批判の的となった。今で言うところの炎上である。  その手術とは、四つ子五つ子といった、多胎妊娠をした妊婦の腹の中にいる胎児の心臓に、塩化カリウムを注入し、妊娠出産にリスクの少ない人数になるまで間引く減胎手術と言われる手法だった。  塩化カリウムは正確に言えば毒物とは言えない。むしろ、心臓の治療薬としてごく当たり前に使われる治療薬なのだ。ただし、その量と使い方に注意が必要だ。  注射針により(胎児にとって)一気に大量に注入された塩化カリウムのせいで、心筋のイオンバランスを崩した胎児の心臓は、たちまち正常な拍動ができなくなって停止する。死亡した妊娠初期の胎児は、そのまま母体に吸収されて消えるという一種の堕胎術だ。  1978年、イギリスで人類初の人工授精で生まれた女児が誕生して以来、不妊治療は急速に世界中で一般化していった。排卵誘発剤や人工授精、体外受精といった当時の先端医療は、不妊に悩む多くの夫婦に、本来ならば抱くことのできないわが子をもたらしたのである。  しかしその一方で、本来ならば、両方の卵巣からひと月に一度、交互にひとつずつ排卵されるはずの卵子が、排卵誘発剤などの使用により、一度に複数排卵され、その全てが受精卵となって子宮に着床する多胎妊娠というリスクを抱えることになったのだ。  それは、受精卵が必ず子宮内で着床するとは限らない人工・体外受精卵にも同じことが言えた。今でこそ、産婦人科学会の規制により、体外授精によってできた受精卵を、子宮内に一度に戻す数は三個までと決められているが、そのガイドラインができる以前は、子宮に戻す受精卵の数に規制などなかったのである。すべては妊娠の確率を上げるための措置だった。  結果、母子ともに非常にハイリスクな多胎妊娠が頻繁に起きたのである。  新庄はあるとき、自分が受け持った四つ子を妊娠をした妊婦が、非常に過酷な妊娠期間を過ごさざるを得なかった上に、四人の超未熟児と、内ひとりが重い脳性小児まひを抱えて産まれるという深刻なケースにぶつかった。 ―――医師として、これは、本当に避けられない出来事だったのか。  新庄の答えは否だ。  その後すぐ、同じ多胎妊娠のケースに出会った新庄は、患者とも相談の上、減胎手術を選んだ。  結果、日本中を騒がすセンセーショナルな命の問題提起とともに、新庄は産婦人科学会を追われた。  夢の中の新庄が、無駄な努力とわかりつつ記者たちに向かって口を開く。 「じゃあ聞くが、あんたは何の手も施さなかったがゆえに、重い脳性小児まひを背負って生きなければいけない子どもの存在を、その子の介護をしながら生きてゆく両親のことをどう思う?」  それを聞き、いきり立って目を吊り上げた記者が椅子から立ち上がって新庄を糾弾する。 「あんたは小児まひを抱えた子どもには生きる価値がないと言っているのか!」 「そうじゃない! 問題をすり替えるな! 私は医師として、それが防げたのではないかと言ってるんだ! そもそも、母体が著しく生命の危機にさらされた場合、中絶手術は合法とされている。事実、六つ子を多胎妊娠した妊婦は、六人全員を中絶しているケースがあるんだ! 欲しくて欲しくて、つらくて高額な不妊治療の末に、やっと授かった子どもだ! その中絶手術が認められて、なぜ妊婦と赤ん坊の健康に配慮した減胎手術が問題視される? おかしいと思わないのか!?」 「いいや、あんたのやっていることは命の冒涜だ! 神でもないただの医師に、命を選択する権利なんかない!」 「それを言うなら、薬や医療技術を使って命を創造する不妊治療にも同じことが言えるはずだ!」 「詭弁だ!」 「違う! すでに世間に浸透している不妊治療を真っ向否定する勇気はないくせに、必死に暗中模索を繰り返しながら、なにかを必死で始めたばかりの少数派を叩いていい気になるな! 俺が神じゃないように、あんたたちも正義の遣いじゃないだろう!」  記者たちの怒りのこもった敵意の目が新庄に突き刺さる。  そして新庄は唐突に、自分がひどく疲れていることに気付く。 「……いや、違う。そうじゃない。俺が言いたいのはそんなことじゃない。排卵誘発剤も体外受精も、今まで子どもをあきらめなければならなかった人々の希望の光だ。減胎手術だってそうなんだ。なぜ、なぜ生まれてくる歓びを、生きる希望を持つことが許されないんだ……?」  そして、夢の最後はいつも、シルエットだけの真っ黒な記者が、光る眼を新庄にまっすぐ向けて、不自然に籠った低い声でこう言う。 ―――その希望の影には、あんたが犠牲にした、たくさんの赤ん坊の死体が埋まっているからだよ。
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