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みしまマタニティクリニック
「先生、先生起きてくださいってば!」
肉付きのいい三島春江の手に揺り起されて、新庄がハッと目を覚ましたところは、診察室の古ぼけたソファの上だった。
ここは東海地方の温暖な海辺の街で、代々つましく営業している小さな産婦人科医院だ。院長の苗字から取った『みしまマタニティクリニック』という安易な名前で親しまれている。現在は代替わりし、三十代の息子が四代目院長として後を継いでいる。
ちなみに、新庄を叩き起こした春江はこの『みしまマタニティクリニック』の、ベテラン助産婦にして看護師長、さらに前院長夫人であり、現院長の実母にして、五人きょうだいの末っ子である新庄の二つ違いの姉でもある。
つまり『みしまマタニティクリニック』最強の人物ということだ。
前院長は三年前に他界しているが、お産の大好きなこの春江は、まだまだ現役で、場合によっては一人で出産現場を見事にこなしてしまう。
院長すら頭の上がらない看護師長がまだ現場に居座っているなど、うっとうしいことこの上もないと思うが、この病院で働く職員の誰からも特に不満が出ないところを見ると、春江のおおらかで陽気な人柄がそうさせているのかもしれない。
30年前、一躍時の人となって産婦人科学会を追われ、それが原因で妻子にも去られ、行き場を失っていた新庄を、この医院に招いてくれたのも春江だった。どちらかというと保守的だった前院長に、生まれたばかりの三女を抱きながら言った。
「薫はああ見えて面倒見がいいから、あなたが雇えないというなら、私が子どもたちのベビーシッターとして雇うわ」
五歳の長男を筆頭に、春江には手のかかる幼い子どもがこのころ三人いた。
ニコニコと悪びれずにそう言い切るこんなときの妻は、決して折れないことを知っていた夫の前院長は、まさか義理の弟であり現役の産婦人科医を、子どものベビーシッターとして雇うわけにもいかず、そのまま春江に押し切られた形でクリニックに受け入れた。
当の新庄も、最初は遠慮からかここに来ることを頑なに固辞していたが、
「あらやだ、あんた、医師として人様に顔向けできないような処置してたからそんなこと言うのね? やだ、あんたの叔父さんは、自分のやってたこと間違ってたって、今更言うのよお。あれだけ世間騒がせといて、やーねー」
母乳を含む赤ん坊相手に、湾曲な嫌味を言う姉に苦笑した。
「でも姉さん、俺がいたらこの病院に迷惑かかるかもしれない。それじゃ義兄さんにも悪いよ」
「あんた相変わらずバカねえ。神様の冒涜とか命の命題なんて誰のためのお題なのよ? いずれにせよ当事者じゃないことは確かね。そういうのは賢い人に任せておきなさいよ。あんたはバカなんだから」
一刀両断である。
「現にあんたのところを訪れた患者さんは、あんたの処置を必要としてやってきたんでしょう? とても具体的な悩みよね。具体的な悩みは具体的な方法で解決するしかないの。だからこれからも、具体的な方法で解決してくれるあんたを必要としてくれる人は必ずいるわ。というわけで、この病院も繁盛するわよ」
「それはどうかな。患者さんは俺を必要としてくれるんじゃなくて、俺が施す処置を必要としてるだけだよ、姉さん。医師なら誰でもできる」
「だからあんたはバカだっていうのよ。学会を敵に回してまで、減胎手術してくれるバカ医者がどこにいるっていうのよ? 何度も言うけど、命というのはとても具体的なものよ。実体のない思想なんかじゃない。医療従事者なら誰でも嫌ってほど知ってるわ。だからいつか、あんたのバカが受け入れられる日も来る。胸を張りなさい」
褒められているのかけなされているのか、いずれにせよ新庄は、温かな自信が漲ってくるのを感じながら言った。
「胸を張ってバカを誇れというのは、世の中姉さんぐらいだよな」
「なにしろバカの姉ですから」
姉の絶妙な返しに笑いながら、肩からすべての力が抜けたような気がした。以来、いや、幼い子どものころからずっと、新庄は姉に頭が上がらない。
このところ、医師不足に加えて明け方の出産ラッシュが続き、新庄は出産の合間に仮眠をとるという生活が続いている。もうあと数年で還暦に手が届かんという新庄の体は、あちこちギシギシと悲鳴を上げた。
「うー、イテテテ。なに? 五号室の山崎さんになんかあった?」
今朝出産を終えたばかりの妊婦さんだ。
「山崎さんは母子とも健やかですとも。もー、また白衣のまま寝てる! しわくしゃじゃないの、みっともないったらもう!」
「まあそういうなよ」
「……また例の夢?」
「へ?」
「うなされてたわよ」
「そう? いや参ったな……」
新庄がだいぶ薄くなった後頭部を撫でる。
「繰り返し見るみたいね」
「……俺、話したことあった?」
「ずいぶん昔に酔っぱらったはずみにね。もう30年以上も前のことなのに、あんたもずいぶん――苦労性よね」
一瞬虚空を見つめて“苦労性”という言葉を探し出した春江を見て、思わず苦笑が漏れる。
「苦労性ね。こんなジジイになってもまだ悟りが開けないか」
「あら、悟りを開きたいの?」
「煩悩からの解脱を目指したいんだ」
「鈍くなるってことでしょ、それ?」
「ハハハ、姉ちゃんにかかると徳のある坊さんも形無しだな」
おおっぴらにしてはいないが、『みしまマタニティクリニック』では、現在もまだ減胎手術を行っている。子宮に戻される受精卵は三つまでという規制があるとはいえ、それでも三つ子の妊娠は相当な負担を妊婦に強いるのだ。
噂を聞きつけ、わざわざ遠方からこの病院にやって来る人も少なくない。マスコミからの風評被害から一時期『みしまマタニティクリニック』から離れる患者さんもいたが、むしろその後、患者数は徐々に増えて行ったのである。まさに春江の言った通りだった。
実際あの当時も、実は夢の中の記者ほど極端な意見で新庄を糾弾する記者などほとんどいなかった。批判はそれなりにあったが、新庄の主張に静かに耳を傾ける者も少なくなかったのだ。
つまりあの夢は、なにをどう取り繕おうが、無残な減胎手術を施す自分自身の罪悪感が見せる夢であり、あの形も顔も曖昧な夢の中の記者たちは、みな新庄自身だということになる。
しかし、減胎手術はともかく、産科医なら中絶手術は日常的に行っている。ずさんなバースコントロールの末に、望まない妊娠なのでと当たり前のように中絶を希望する夫婦やカップルは山のようにいる。妊娠出産に何の問題もない健康な胎児を日常的に堕胎しておきながら、夢の中の記者たちにそのことを糾弾されたことは一度もない。
「多数派におもねるのは、俺も同じだな」
自嘲気味にそうつぶやく新庄の言葉を耳ざとく聞きとがめ、「え?」と聞き返す春江に言った。
「いや。――で、なんで俺は安眠を妨害されたんだっけ?」
「あ、そうそう。体外受精希望の新規のご夫婦がおみえですよ」
クリーニング済みのパリッとした白衣を差し出しながら、春江が言った。
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