再発

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再発

現在————    校舎の屋上から見上げた空では、ダイナミックなごつい雲が滑るように流れてゆく。生徒の出入りを厳しく禁じた屋上では、普段滅多にひとけがないが、今は大柄な男がひとり空を見上げている。辻本信吾だ。     先ほどまで都内各地にゲリラ豪雨をもたらしたこの雨雲は、雹交じりの大粒の雨を、気のすむまで地表に叩きつけると、今は冗談のように神々しい光芒を雲間から地上に降り注ぎながら、悠々と西に向かって流れてゆく。  信吾は、そんな空を見上げながらおもむろに着ていたシャツを脱ぎ、上半身裸になると、ためらうことなく自らの頭にバリカンを入れた。鏡がないので、時々コンクリートに溜まった水たまりで確認しながら、額、こめかみときて、最後にうなじから頭頂部にかけてバリカンを走らせる。何度も自分で髪を刈ったことがあるのか、慣れた手つきである。信吾の固い髪を刈るジジジというバリカンの音が、誰もいない屋上にこだまする。  やがて、一通り頭を刈り終わると、床に落ちた髪の塊をざっとかき集めてレジ袋に詰め、脱いだシャツで首筋に残る細かい髪を叩くようにぬぐった。最後にシャツを広げ、力任せにバサバサと振って細かい毛を落とし、再びシャツに袖を通すと、大股に屋上を後にする。  階段を下り、午後の授業のために教室に向かう。その途中立ち寄ったトイレのゴミ箱に刈った髪を捨て、手洗い場の鏡を見ながら坊主頭の最後の調整をして3年3組の教室のドアを開けた。  この辺りでも評判の底辺高校とそしりの高いこの公立高校では、教師の姿を見たぐらいで生徒は騒ぎを止めない。素行の悪さでは定評のある生徒たちが、信吾の姿を見た途端、どういうわけか一瞬シンと口をつぐみ、神妙な様子で机や椅子をガタガタ鳴らしながら席に着いた。  そして、どの生徒ももの問いたげな眼差しで、黙って信吾を見つめている。生徒たちはどうやら、担任教師が突然頭を丸めたことに驚いているばかりではないらしい。 「授業始めるぞ」  さっそく黒板に向かい、小さく苦笑しながら、信吾は生徒の無言の問いかけから逃れようとした。 「先生、もしかして再発……?」  そんな信吾の態度に焦れたのか、誰かが小さくそう問いかけた。  生徒たちはみな、信吾のその唐突な坊主頭が何を意味しているのか知っているのだ。  目尻に苦笑を残したまま、信吾の目元が強張った。  『再発』という言葉は、思った以上に信吾の胸を衝いた。    三年前、尚樹が中二の時に宣告された病名は、急性骨髄性白血病だった。いわゆる、血液のがんである。  悩んだ末に、尚樹に告知した。尚樹は鋭い。このまま黙って抗がん剤などの過酷な治療に入れば、おのずと気付くだろう。その時に、隠していたという事実が尚樹を傷つけるような気がした。 「へえ、俺、なんかかっこよくね?」  尚樹の開口一番だった。実感がないということもあるだろうが、尚樹は半ば本気でそう思っている。そしてあとの半分で、この厳しい運命とどう折り合いをつけていいのか、めまぐるしく考えているのだ。 「尚樹、医師のインフォームドコンセントだけじゃなくて、自分なりに調べたいというなら……」 「そんな顔するなよ、親父。俺より顔色悪いぞ」  信吾に最後まで言わせずに尚樹が苦笑した。 「いいよ、親父と先生を信頼する。えーと、これから、よろしくお願いします」  そう言って、医師と看護師にぎこちなく頭を下げた。  息子のその姿を見て、こいつは俺が思っているよりずっと、大人になっていたんだなと思った。  言うまでもないが、血液は、生き物の頭のてっぺんからつま先まで、体中くまなく循環しながら、全身状態をコントロールしている。その仕事は驚くほど多岐にわたり、全身に酸素や栄養素を届けることはもちろん、余分な二酸化炭素や老廃物を運びだし、唾液や鼻水、胃酸やその他あらゆる体液の原料となり、殺菌消毒し、傷があれば治療する。その他、細かい作用を入れればきりがないが、つまり生き物は、派手な出血などなくとも、血液の流れが止まってしまえば、五分と生きてはいられないのである。  急性骨髄性白血病に侵された場合、ある日突然、どういうわけか、骨髄は正常な血液を作るのを止めてしまう。異常な増殖を始めた白血球は、他の正常な血液を圧倒し、増殖を繰り返しながら、いずれ正常な血液を凌駕し、血液全体のバランスを崩してしまうのだ。それはすなわち、全身をくまなく蝕む死病となるということである。  急性骨髄性白血病の化学療法は、一般的に、まず二種類の抗がん剤を併用して一週間ほど連続投与し、完全寛解と言う状態まで引き上げる。これは見かけ上、血液中に白血病細胞がないと思われる状態を指すが、全身を隅々までめぐる血液をくまなく調べるのは物理的に不可能だ。あくまで、一定の決まりに従って検査した範囲ということである。そのため、隠れた白血病幹細胞を根こそぎ叩き、再発防止のための二度目の抗がん剤投薬を、地固め療法という。  これが過酷を極めるのだ。  最初に投与した抗がん剤を20倍の濃度にして他の薬剤と共に再び五日間ほど投与するコースを1とし、ひと月ほど間隔をあけ、2コース、3コースと続ける。この間、患者は多くの場合、髪と共に気力体力ともに激しく消耗してゆくのだ。  そんな過酷な治療の最中、洗面所の鏡に映った自分の顔を見ながら、尚樹が声も出さずに泣いているのを、信吾は病室に入ろうとしてたまたま目撃してしまった。とっさに尚樹のそばに駆け寄ろうとした父親の本能を渾身の力でねじ伏せ、信吾はあえてそっとその場を離れた。  おそらく尚樹は、治療のせいで髪が抜け落ち、痩せこけた自分の無残な姿がつらくて泣いているのではない。いや、もちろんそれもあるのだろうが「なぜ自分が?」という気持ちの方が強かったのではなかったろうか? 何と言っても尚樹はまだ、わずか14歳なのである。  治療中、どれほど厳しい状況であろうと、信吾の前で、尚樹は滅多に弱音を吐かなかった。信吾は、背中を丸めてベッドの中でうずくまる尚樹の背中を、黙ってさすってやることしかできなかった。尚樹は父親の前で「つらい」と素直に泣くことができないほど、強くて優しい息子だった。何もできない父が苦しむのがわかっているからだ。 ―――たまらない。  代われるものなら代わってやりたいと、親なら誰もがそう思う。尚樹の手を握り、そう叫びたくなる衝動と闘うのは精神力が必要だった。しかし、そんなことはできない。できないことを「してやりたい」と言うことに何の意味がある? それは、「病で苦しんでいるおまえを見る『俺が』つらい」と尚樹に泣きつくのと同義なのだ。病と必死で闘う当の本人に、そんな甘えが許されるはずがない。  尚樹が父の前で口にしないことがあるように、信吾にも、息子の前で口にしないことがあるのだ。  信吾はその足で発作的に病院を出、最初に目についた床屋に飛び込んだ。  ちょうど暇を持て余していた店主は、信吾のただならぬ様子に目を丸くしたが、 「坊主にしてくれ」 と言う信吾の一言に、それ以上何を聞くでもなく黙って椅子を指し示した。病院の近くで営業するこの床屋では、信吾のような客は珍しくないのかもしれない。  リズミカルに髪を刈る、店主が持つバリカンのジジジというその音と、肩にバサリバサリと落ちてゆく髪を鏡越しに見ているうちに、なぜか信吾は落ち着いた。  地肌が見えるほど短く丸めた頭で病室に戻ると、ぐったりとベッドに横になっていた尚樹の目が、驚きに見開かれる。 「なんだ、それ!?」 「いいか、よく聞け。薄くなった髪を誤魔化すためじゃないからな。いいな」 「ハハハ、俺のニット帽貸してやるよ」 「だから、ハゲマカシ(、、、、、)じゃないつってんだろ」 「は? ハゲマカシってなに?」 「禿の誤魔化しを略してハゲマカシ」 「ハハハ、勝手に日本語作るなよ。それでも教師かよ」 「残念ながら、数学のな」  久しぶりに声を出して笑う尚樹の顔を見て、信吾の胸に小さな温もりがさした。尚樹が楽しいなら、この先一生髪なんか生えなくていいと思った。  翌日、あまり人相がいいとは言えない大柄な数学教師が、突然坊主頭で教室に入ってくるというのは、なかなかにインパクトがあったようで、毎日ヒマを持て余している学生たちの恰好の物笑いと、好奇心の的になった。  その理由をのらりくらりとはぐらかす信吾の態度は、生徒たちには意味深に映ったようで、日を追うごとに、ますますその話題が膨れ上がる。   薄くなった髪を誤魔化すためだ。いやいや、突然悟りを開き、仏門に入門したんじゃないか? いや、聞いたところによると、やくざと揉めて小指の代わりに頭を丸めさせられたのだ―――などと様々な憶測が飛び交ったのだが、そのうち、音楽の女教師にフラれたショックからだと、誰かがもっともらしく言い始めると、それがよほど生徒たちの好みにあったのか、噂はたちまち学校中に広がり、三浦という音楽教師までがからかいの対象になるに至って、ようやく信吾はその理由の一端を明かすことにした。他人を巻き込むのは本意ではない。とうとう病気の息子のためだと白状したのである。 「薬の副作用で髪が抜けるんだ。それを気にして落ち込んでるから、俺も一緒に丸めてみたってわけだ」  嘘――ではない。そんな気持ちもどこかにあったのは本当だ。しかし信吾は、発作的に頭を丸めてしまった自分の心情を、誰かに理解してもらいたいとは思わなかった。心のすべてを余すところなく語れる言葉などない。だから信吾は、誰もが理解しやすく簡潔な言葉を選んだ。 「マジで!? 薬で禿げるってヤバくね!? どんな病気だよ、それ」  抗がん剤の中には、投与されると髪が抜け落ちるという副作用があるのはあまりに有名だが、笑いながら軽口をたたく無知な生徒は、敏感に察した生徒に、「よせ」とたしなめられて口をとがらせた。 「なんだよ、みんな? なんで急にマジになっちゃってんの!?」 「あたし、そういう映画見たことある。白血病ってヤバい病気の治療で髪が抜けちゃった娘のために、ママが頭を丸めるの。もしかして、先生の子も?」 「え……」  さっきまでふざけていた生徒が、それを聞いてさすがに口を噤んだ。おろおろとうろたえるさまを、穏やかな苦笑で流して信吾が続けた。 「へえ、そんな映画があるのか。俺はその映画は見てないが、うん、俺の息子も急性骨髄性白血病だ。血液のがんだな」 「……で、その映画の子、どうなっちゃうの?」  さっきまでとは打って変わってシュンとなった男子生徒が、上目づかいに聞いた。 「それは……、えと、なんだっけ? 忘れちゃった……」  不器用な優しさでそう誤魔化す女生徒の様子が、物語の哀しい結末を語っている。  途端に教室のあちこちでざわざわと「えー、マジ!?」「かわいそう」などのささやきが交わされている。 「ほら、静かに。今は抗がん剤ですっかり病気の発症を抑えられるし、ドナー登録もしたし、そのうち骨髄移植ですっかり完治して、俺の息子はおまえらより長生きするかもしれないぞ。実際、ある有名大物俳優は三十年以上も前に同じ病を発症したが、今もまだ現役で活躍してる」  まだまだこの話をし足りない生徒たちがこそこそとささやき合っていたが、信吾は無理やりこの話を切り上げた。 「さ、この話はここまでだ。音楽の三浦先生のことは関係ないってわかってくれたか? 教科書52ページ開いて……」  すると、信吾がこの学校で教師をして以来およそ初めて、教室の生徒が一斉に一人残らず教科書を開いたものである。  あの時、一年生だった生徒が今年は三年だ。以前は尚樹の難病に、ただただ衝撃を受けていた生徒たちだったが、その後生徒たちなりに、病気のことをネットや何かで調べたのかもしれない。いくら評判の底辺高校だとは言っても、中には真面目な者もいる。  それ以降、信吾の坊主頭をからかう者はいなくなった。そして今はただ、静かに状況を見守ってくれている。  他人の目を引く派手な身なりや、ぞんざいな態度で他人に誤解を与える若者たちは、大人の目から見れば愚かしいには違いない。しかし、それもこれも、不器用で拙い自己主張と、思春期のホルモンのなせる業だと思えばかわいいものである。例外ももちろんいるが、少なくともここにいる多くの生徒が、信吾の痛みに寄り添おうとしてくれている。   この不器用な子どもたちから学べることは驚くほど多い。
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