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***
雨が上がったようだ。
高台に建つこの大学病院は、皇居が近いということもあって、都内のど真ん中だというのに窓から見える景色は意外にも緑が多い。
昼ごろ、この辺り一帯を襲ったゲリラ豪雨は、埃っぽい街の空気を一気に洗い流し、街路樹をみずみずしくくっきりと際立たせていた。
尚樹の人生は、中学二年の二学期の始業式で倒れたあの日以来、一変してしまった。
病気の診断を受けてすぐに始まった治療は、確かに過酷を極めたが、治療を終えると病状は冗談のように息をひそめ、以来三年間、慎重に体調を見ながらとはいえ、その後の学生生活も高校進学も、つつがなく乗り越えてきた。このまま何ごともなかったように、やって行けるのではないかと思った矢先の三年目の再発は、尚樹の気持ちを滅入らせるのに十分だった。
それまで、当たり前のように尚樹の手の中にあったものは、信じられないスピードで指の間からするするとこぼれて行ってしまう。
ベッドに横たわる尚樹は、点滴に繋がれボンヤリと窓の外を眺めていた。
――俺、やっぱ死ぬのかな。
そんな昏い考えが頭をよぎったとき、ノックの音が響いた。
尚樹の気のない「どうぞ」の声に入ってきたのは、思ってもいない人物だった。的場奈々である。
「的場……?」
「こんにちは……」
驚く尚樹を尻目に、奈々がおずおずと病室に入ってきた。
中学の頃と違って、丸みをおびていた頬はスッキリと引き締まり、高校入学を機に、長い髪をバッサリと顎のところで切り揃えたボブカットはよく似合っていた。
奈々とは同じ高校に進学したのだが、男生徒の間でもっぱら人気急上昇中だというのを聞いて、ますます遠い存在になってしまったなと思っていた。
なによりも、尚樹が最初に入院した中学のあの時以来、奈々とは気まずい喧嘩をしてそれきりだったのだ。尚樹の驚きは、奈々が考えている以上のものだった。
*
尚樹が中2で入院したあの頃、クラスメートたちは当初、ひっきりなしに病室に訪れ、ガヤガヤと騒がしくしては看護師に怒鳴られていた。目の前の級友が、ドラマや映画でしか見たことのないような病で、突然この世を去ってしまうなんてことが実感として伴わない。彼らはみんな、そんな年齢だ。
しかし、抗がん剤治療の影響で、尚樹の状態が様変わりするにつれ、賑やかだった級友はみな口数が少なくなり、徐々に病室にいる時間が短くなり、一人二人と顔ぶれが減り、ついには誰も姿を見せなくなってしまった。
周囲の教師や親たちが、尚樹の元に訪れるのはいい加減に遠慮しろと気を回したことも多分に関係しているが、子どもたちの多くが、その言葉でホッと胸を撫で下ろしたのも事実だった。
そして、実を言えば、尚樹も彼らと過ごすことがキツくなっていた。
弱っている自分に対し、中学生の彼らはあまりにも元気で、その元気に触れることが尚樹を消耗させた。「大丈夫か」と問われれば、反射的に「大丈夫」と返してしまう。治療で疲れ切った身体に、そんな定番のお約束を消化してゆくのが辛い。入れ替わり立ち替わり口にされる、慰めや励ましを受け止めるには体力が必要なのだ。
鬱陶しい——正直そう思った。
それを敏感に感じた級友たちは、徐々に足が遠のいてゆく。
それに気づいた尚樹は、そのことに傷ついた。
勝手なものだとは思う。しかし、尚樹の心は徐々にささくれだっていった。
尚樹を含む彼らはみな、まだ幼い。
そんな中、気丈にも奈々だけが、保健委員だからクラスの代表なのだと言っては、ノートやプリントを持って変わらず来てくれた。
そんなある日、奈々が両手いっぱいに千羽鶴を抱えて、クラスのみんなからだと言ってやってきたとき、ついに尚樹の心が限界を超えた。
「もういいよ、もうこんな白々しいことするなよ! おまえも帰れ! 二度と来るな! 俺は悲劇の主人公じゃねえ!!」
立ちすくむ奈々の目の前で、丁寧に折られた折鶴を存分に引き裂き、引きちぎり、ぐちゃぐちゃに踏み潰し、握りつぶして壁に投げつけた。
なすすべもなく、そんな尚樹を見守るしかなかった奈々は、
「ごめんね、そうだよね、こんなの邪魔なだけだもんね。ごめんね」
小さな声で何度も謝りながら、無残に散らばった千羽鶴をせっせと拾い集めている。それをかき集める奈々の手に、ぽたりと涙がこぼれたのに気付いた尚樹は、たまらずその場から逃げ出した。
「あ、辻本!」
呼び止める奈々の声に、尚樹を非難する色合いはない。そのことが一層尚樹を惨めにさせた。
その後、ベテランナースの吉田が尚樹を呼びに来るまで、尚樹は中庭の植え込みの陰で、固く膝を抱えて座り込んだまま動くことができなかった。激しい自己嫌悪と、思い通りにならない己の体と、のべつ幕なしに自分を蝕む厄介な病を心底憎んだ。
どういうわけか、たちまち自分の居場所を探り当てた吉田が、でっかいケツでドスンと尚樹の横に腰かけると、何も言わずに素晴らしくたくましい腕で、蹲る尚樹の背中をゴシゴシと力強くさすってくれた。その勢いに座ったまま上半身を揺さぶられながら、尚樹は初めて人前で泣いた。
「俺は馬じゃねえぞ。こういう時は優しく撫でてくれるんじゃねえのかよ」
「闘う男に必要なのは、慰めじゃなくて応援でしょ。優しくなんかできないわよ」
「……あいつは?」
「……帰ったよ」
「……」
「辻本に謝ってくれって。親切の押し売りなんかしてごめんなさいって伝えてくれって。また来ますって言ってたんだけど、今はそっとしてやってくれって断っておいたよ。あの子のこと、好きなんでしょ?」
尚樹は膝に顔を埋めたまま、嗚咽がこぼれるのを止められなかった。
吉田は、背中をさする腕に更に力を込めた。
「つらいねー、厳しいねー。でも、あたしもみんなも応援してるよ。頑張れとは言わない。君が頑張ってるのはみんな知ってるから。苦しい闘いだもの、なりふり構っちゃいられない。だから、男の子だって大人だって、泣きたいときは泣いていいんだよ」
「……うん」
以来、奈々や級友たちが病室に顔を出すことはなくなってしまったが、授業のノートやプリントは、吉田の手を通してマメに届けられた。ノートの終わりには、毎回必ず、尚樹を励ましているかのような笑顔の顔文字や動物の小さなイラストが描かれていた。奈々のノートの隅によく見たものだった。
その後、無事治療を終え、尚樹は学生生活に復帰したわけだが、表面上変わりなくみなと接することができても、尚樹の中では何かが変わってしまった。
妬みや怒りや死への恐怖心といった、一時期尚樹を黒く覆ったネガティブな感情とはまた違う、同級生と自分とを隔てる薄い壁一枚。
それは、どれほど泣こうがわめこうが、人生では時に、どうやっても諦めねばならないものがあるのだという残酷な現実だった。尚樹はわずか14歳で、それに気づいてしまったのである。
あれから三年——
「久しぶり。また入院したって聞いてお見舞いに来たの。元気……なわけないか。お見舞いって、生花ってあんまよくないんだって知ってた? 花粉にアレルギーある人もいるって聞いて納得なんだけど、じゃあドラマなんかでよく見るあれってなんなのよねぇ? でもまぁ、よく考えたら、辻本に花って変だし、やっぱ定番のノートかと思ったんだけど、クラス違うから授業もどこまで進んでるかわかんないし、何がいいか迷ったんだけど、あたしの好きなマンガ持ってきた」
また尚樹に来るなと言われるのを恐れてでもいるのか、尚樹が口を開く前に、まくしたてるように早口で話しながら、奈々が差し出したコミックは、普段の尚樹なら決して手にしそうにない少女マンガだった。
「これ、映画やアニメにもなった将棋のマンガだろ? 面白いの、これ?」
気さくに返す尚樹の様子に、ホッとしたように奈々の笑顔が深くなった。
「厳しい世界で孤独にもがく主人公を、穏やかに癒す三姉妹との交流に毎回号泣。そして読み終わった後はなぜか腹ペコ」
「あはは、意味わかんねえ」
奈々の単純な心に尚樹が笑う。
「マジ。まあ、騙されたと思って読んでみなって。気に入ったら続き持ってきてあげる」
「不合格だったら、別のやつ持ってこいよ」
「うん、わかった」
三年の月日が嘘のように奈々が笑った。
かつて、尚樹と奈々を隔てた病は、ほんの少し成長した二人を、今度は急速に近づけようとしていた。
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