救世主きょうだい

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***  ボンヤリしていたわけではないのだが、弘子のお気に入りの皿は、手からツルリと滑ってあっという間に床で砕けた。食べ物が載っていなかったのがせめてもの幸いかもしれない。  ガシャンという派手な音に、七歳になったばかりの娘の美弥が振り向いた。 「あー、ママやっちゃったー」 と、どこか楽しそうにこちらにやってくる美弥は、ミスなど侵さないはずの大人が、自分と同じようなドジをやらかしてしまったことが嬉しいのだ。 「ダメ! こっちに来ちゃダメよ!」  弘子の強い口調に、驚いた美弥の足が一瞬凍りつく。弘子は美弥に声を荒げたことがない。 「ああ、ごめんごめん。割れたお皿の欠片踏んだら怪我するから、危ないからこっち来ちゃダメよ」  穏やかな口調で丁寧に説明し、弘子は手早く欠片をかき集める。 「はーい」 と素直にそう答えながら、美弥はリビングの隅から長い柄のついた、使い捨ての紙が巻かれたモップを持ってきて、言われたとおりなるべく遠くから腕を伸ばし、つま先立ちで弘子にモップを差し出してくれた。その一生懸命なしぐさがけなげでかわいい。 「ふふ、ありがと。美弥は気が利くわね。さすが!」  大げさにそうおだてると、弘子のノリにすかさず合わせて胸を張る。 「ま、あの不器用なパパに、長年連れ添ってきたあたしですから」  どこで覚えてきたのか、その大人びた気取った言い草に 「長年ってあなた、まだたったの七歳じゃないの!」  たまらず弘子が笑い声をあげると、美弥も一緒になってクスクスと笑う。 「でもね、ママ。パパってば、ママみたいにお掃除しながらシチュー作ったり、お洗濯しながらチラシのチェックしたりできないんだよ? だから、ママが来る前は美弥がお手伝いしないとなーんにもできなかったんだから」  美弥は弘子の実の子ではない。夫の松浦隆司とその前妻美波との間に生まれた連れ子である。  実母の美波は、美弥が生まれてすぐに、気の毒にも心臓発作で急逝してしまったのだ。そのため、幸か不幸か美弥には母親の記憶がない。もともと人懐こい子ではあるが、弘子にすぐ馴染んだのもそのせいかもしれない。 「あー、パパはきっと、難しいお仕事のこと考えてたんじゃないかなぁ? そういう時って、手元がおろそかになっちゃうじゃない?」 「うーん、そっかなー。でも、やっぱり家事のやり方はママと全然違う! ママは何でもぱぱっとやっちゃって、魔法使いみたい!」 「え、そう? あはは、ありがとう」  この子の観察眼と頭の回転は決してバカにできないと、弘子は改めて心に刻んだ。  そんな他愛ない会話をしているうちに、近所に住む仲良しの彩奈ちゃんがお迎えに来て、美弥は元気よく学校に出かけて行った。  まだまだランドセルに背負われているような、小さな二人の背中を笑顔で見送り、ゴミを出し、フル回転で掃除と洗濯を済ませた。そして、近所の本屋にパートに出る準備をしている最中に、バッグの中の携帯が着信を鳴らした。着信の名前を見て、弘子の心臓がどきんとひとつ大きく打った。このスマートフォンに機種変更したのはおよそ一年前だが、電話帳に登録はあっても、その間一度も呼び出されたことのない名前である。  そこには『辻本信吾』と表示されていた。  弘子が、元夫の信吾どうしても会って話したいことがあると言われ、お茶の水の駅前にある、通りに面したカフェで待ち合わせた。  数年ぶりに会う信吾は、猫背気味の大柄な体は相変わらずだが、驚いたことに、どういうわけか頭をきれいに丸めていた。  弘子も久しぶりの再会にかなり緊張していたが、信吾の緊張はそれ以上だったらしく、少し早く到着して先に席についていた弘子の姿を認めると、わずかに苦しそうな顔をして軽く頭を下げた。  これは相当深刻な話があるのだなと、弘子はかつての経験からそう思った。  そして――  弘子は、あまりのことに、思わず掛けていた椅子から立ち上がった。  その勢いで固い木の椅子がガタンと派手な音を立てて倒れ、周囲の視線が弘子に集まった。しかし、弘子はそれにも気づかず、真っ青な顔で信吾の顔を見つめるだけだ。 「あ、あなた、自分が何を言ってるかわかってるの?」  今しがた聞かされた信吾のあまりの話に、弘子は口の端をわななかせながらやっとのことで言葉を吐き出した。 「……ああ、そのつもりだ」 「え、じゃあ、私が何かの勘違いをしてる? 今あなた、なんと言ったの?」 「……弘子」 「……」  元夫の辻本信吾は、三年前に発病した息子の現在の病状と共に、卵子を提供してくれないかと言ったのである。  弘子の様子に不穏なものを感じたのか、躾のいい店員がすかさず駆け寄り、倒れた椅子をもとに戻しながら「お客様、大丈夫ですか?」と聞いた。  その時初めて、弘子は自分の異様な様子に、店内の注目が集まっているのに気づいた。 「すみません、大丈夫です」  小さくつぶやきながら、店員が起こしてくれた椅子に座りなおした。  弘子は家を出て以来7年間、一度も尚樹には会っていない。会いたくなかったわけではない。むしろ、尚樹の顔を見るために、フラフラとかつて暮らした家や、尚樹の通う学校に向かう足を、何度も何度も戒めなければならなかった。  それほどまでに会いたいと思っていた尚樹が、あろうことか難病に侵され、それが三年後の現在再発し、キツイ抗がん剤治療の真っ最中だと言うのだ。 そのことだけでも受け止めかねているのに、弘子の卵子を提供してくれという、その意味がよくわからなかった。 「尚樹と同じHLA…つまり、同じ免疫の型を持ったきょうだいを作りたい」  信吾は何かの痛みに耐えるような顔でそう答えた。 「きょうだい? いったい何の話?」  信吾の話はますます雲をつかむようで、まるでわけがわからない。 「キュウセイシュキョウダイ? 私の卵子で……?」  弘子が感情の抜けた声で繰り返した。 「ああ。そして、その子にはいずれ、尚樹のドナーとなって骨髄を提供してもらいたいんだ」 「……何を言っているの?」  弘子が黙って信吾を見つめていると、信吾は畳み掛けるように続けた。 「君は卵子を提供してくれるだけでいいんだ。生まれた子どもは、もちろん俺が育てる。受精卵は代理母を探して……」  弘子はその途端、バッグを掴んで席を立った。 「弘子!」  正気を失った信吾にこれ以上付き合えないと弘子は思った。  信吾は狂っている―――。  そうだ、尚樹……尚樹のところに行ってやらなければ―――。  弘子はそのまま店の出口に向かった。  駆けだすように店を飛び出す弘子の後を、慌てて信吾が追う。  もちろん、信吾にもわかっていた。  ごく一般的な養子縁組ですら、その両親となる男女には、様々な条件が必要なのである。貰われていく子どものために、できるだけ理想的な環境を用意してやりたいという、子ども主体の行政の当然の在り方だ。つまり、シングルファーザの信吾の場合、ただの養子縁組ですら難しい。それが、病気の息子のドナーとなるために人工授精できょうだいを作り、おまけに代理母を使って誰かに産ませるというのである。こんな無茶苦茶な計画に、どこの誰が協力してくれるというのだ。  しかし、もし弘子さえ卵子提供に応じてくれれば、金を積んで海外のアンダーグラウンドを丁寧に探せば代理母ならあるいは―――。  信吾はそんな無茶な計画に一縷の望みをかけていたのである。 「待ってくれ!」  やっとのことで弘子に追いつき、とっさに腕を掴んで引き止めた信吾は、 「やめて! 触らないで!」  そう叫んで腕を振り払い、汚いものでも見るように自分を見上げる弘子に、冷水を浴びせられたように伸ばした手を降ろした。 「すまない……。俺はただ……」  その先の言葉を続けることはできなかった。 ―――ただ、なんだというのだ。  弘子は、うつむき加減に髪で表情を隠したまま、両腕で自分自身を抱えるように立ちすくんでいる。  それは、昔から弘子がよく見せる、他を頑なに拒んでいる時のクセだった。  海外のアンダーグラウンドを探せばなんて嘘だ。信吾は弘子のそんな姿を見るまで、心のどこか僅かな隙間で、尚樹の病気をきっかけに、もしかしたら、弘子が自分とよりを戻し、尚樹を魔法のように救ってくれる赤ん坊を産んでくれるかもしれないと思っていたのだ。そんなご都合主義の未来の中に、さもしくも己の幸せを見ていたのである。 ―――俺は、なんとあさましい夢を見ていたのか。   自分が正しいと信じていることを、家族もきっと同じ気持ちでいてくれるという、信吾のそんな独りよがりな思い込みが、かつて弘子を追いつめた。  信吾は、昔と同じ姿勢で頑なに自分を拒む弘子の様子を見て、ようやく腐臭を放つ己の醜さに気付いた。  そして信吾は、ガクリと地面に膝をつき、人目もはばからず土下座した。 「頼む! あいつを救うにはもうこれしかないんだ!」  それでも、尚樹を救いたいという思いだけは手放すことができないのだ。 「―――!!」  その時、弘子がどんな顔で自分を見ていたのかはわからない。額をこすりつけた地面を見つめながら、信吾は足早に遠ざかる弘子の靴音を、絶望的な思いで聴いていた。
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