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松浦隆司は、入社8年目の編集者、佐々木美咲と、勤め先である千尋出版近くの、行きつけの居酒屋で食事がてら軽く呑んでいた。美咲が相談したいことがあるので、少し時間をもらえないだろうかというのだ。
相談事と言うのは、美咲の兄の離婚にまつわる親権のことで、兄はどうしても親権が欲しいというのであるが、子どもが幼いうちは圧倒的に母親有利な親権を、なんとか父親側に引き寄せることはできないだろうかというものだった。
隆司は前妻の美波とは死別である。従って、実体験から有益なアドバイスができるとは思えないが、隆司が以前編集者として関わった実用書に、カリスマ離婚カウンセラーの、離婚についてのマニュアル本があったのである。その際の知識が役に立たないだろうかということだ。
「うーん、でも、奥さんの方に瑕疵はないんだろう? 育児放棄していたとか虐待があったとか?」
「全然まったく。姪っ子の優衣は、それはそれは健やかにかわいがられておりましたとも」
「経済力は?」
「兄の元嫁さんは、しっかり者の元看護師で、こうなったらすぐに職場復帰するでしょうし、実家も都内だし、ご両親とも健在で、今は実家に身を寄せて悠々自適です」
「清々しいほど絶望的だな。あとは面会権をできるだけもぎ取るしかないんじゃないか?」
「ですよね」
美咲はアッサリ納得した。
「なんだよ、それでもなんとかしたかったんじゃないのかよ」
美咲のあまりの引き際の良さに、苦笑するしかない隆司だった。
すると美咲は、ホッケの皿をつまらなさそうにつつきながら続けた。
「実は、編集長に相談したいって言ったときは、私もそれなりに息巻いてたって言うか、離婚の原因って、兄に一方的に非があったわけじゃなくて、いわゆる性格の不一致だっていうし――ってまぁ、ホントのことは本人たちにしかわからないとは思いますけど――初孫に会えなくなるうちの両親もかわいそうだし、あたしだって優衣はかわいかったし、わが子奪われる兄はもっとつらいんだろうなぁって思ってたんですけど……」
美咲はいったん言葉を切って、食べるでもないのにいつまでもホッケをつつきまわしている。そんな行儀の悪い美咲の手元を見ながら、隆司は「けど?」と先を促した。
「親がかわいそうだもんなって言ったんですよ。兄が」
「……?」
意味が分からず、眉を持ちあげた隆司に、美咲は淡々と先を続けた。
小さな工務店を経営している美咲の実家では、数年前から兄が家業を継いだ。美咲曰く、万年倒産寸前の弱小工務店だが、そこで同居していた兄夫婦は、優衣が生まれて幼稚園に入れたころから、家族関係がぎくしゃくし始めたそうだ。おそらく、初孫を巡る育児法ですれ違い、その小さな綻びが綻びを呼び、結局は取り返しのつかない家族の崩壊を招いてしまったのだろうという。
実際には美咲の大まかな予測で、その辺りの詳細については聞いていないし、聞きたくもないと言う。
「どうせ、突き詰めれば、どこにでもある家族間の微妙なすれ違いってやつですよ。ちなみに、飲み屋のネエチャンと店で時々イチャイチャするのを除けば、兄は浮気してません。何度も厳しく問い詰めた挙句の妹の勘ってやつですが」
美咲は冷静に切って捨てる。
「なるほど」
そんなこんなで結局離婚することになってしまったわけだが、美咲の兄は、娘の優衣を元妻に持っていかれてしまえば、この先子どもが持てるとは思えないというのである。
「この結婚難の時代に、『親持ち自営業の俺がこの先再婚できるとは思えないし、結婚はもう当分こりごりだ。再婚がなければこの先子どもも持てないだろう。そしたら、内孫を失う親に申し訳ない』って言うんです」
「まぁ、そうなるとは限らんし、おまえに子どもができれば孫だって……っていう話じゃないんだよな、もちろん。うんうん」
彼氏いない歴3年で、そろそろアラサーではなくアラフォーに手が届こうという美咲の、殺意のこもった眼差しを受け、隆司は話の矛先をあわてて変えた。
「あたし、それ聞いてショックでした。男ってわが子に対してこの程度の気持ちしか持てないんだなって。それじゃ、子どもは優衣じゃなくても、自分の遺伝子さえ持っていれば誰でもいいみたいじゃないですか。ねえ?」
「んー、そういうことでもないと思うんだが……」
「そうですかね? 兄は昔っから妙に冷たいとこありましたし、いくら兄と言えど、この程度の気持ちしかないなら、子どもは母親の元にいたほうが絶対幸せだって思っちゃったんですよね、あたし」
「……うーん」
隆司の口からは何とも言えない。
「編集長、知ってますか? こないだ何かで言ってたんですけど、親が死んじゃった場合、母親が死ぬと、子どもが十歳までに死んでしまう確率は父親に比べて三倍高いんですって、三倍! でも、父親だと全然影響ないそうです。経済力は父親が握っているにも関わらず、です」
「へえ」
隆司は素直に感心した。
「あたし、兄のその言葉聞いたとき、こういうことかって思いましたよ。父親と母親って、根本的に全然違うんですよね」
普段からよくしゃべる美咲だが、酒のせいでさらに饒舌になっている。
「そう言われちゃうと、男親の俺にも耳が痛いな」
グラスを傾けながら、隆司がそういうと、酒で赤くなった顔を隆司に向けて美咲が言った。
「でも、編集長は美弥ちゃん引き取ったじゃないですか。聞いてますよ。前の奥さんが亡くなったとき、ご両親が田舎からやってきて、まだ赤ん坊だった美弥ちゃんを引き取ってもいいと言われたのを、美弥は俺の娘だから自分が何としてでも育てるから帰ってくれって、毅然と断ったとかなんとか」
結果から言えばその通りなのだが、何やら怪しい美談になっている。
「そりゃ誤解だ。毅然となんて、そんなかっこよくできるわけないだろ。仕事しながら美弥を育てられるように、あちこち頭下げまくって、助けてくれって必死だったんだぞ」
「いやもう、そこがカッコいいって言ってるんですよ、あたしは。だってね、兄はえっらそーに、親権だ面会権だって言ってますけど、実家住みじゃなくて、頼れる親が近くにいなければ、絶対優衣を引き取るなんて言うはずないですもん。絶対です」
美咲の兄もなめられたものである。
「なのに、編集長は頼れるご両親やきょうだいが近くにいたわけじゃないのに、自分一人で当時まだ二歳の赤ん坊育てようって、なんかスゲーです。尊敬します。編集長が会社の上動かして切り開いてくれたおかげで、子持ちの女子社員まで仕事しやすくなったし、なんで同じ男親なのに、兄とこうも違うのかって、そこん所が聞きたかったわけです。今日は」
「よせよ。そんないいもんじゃないよ。元カミさんのお袋さんに、何としても美弥を自分の手で育てなさいと言われたんだよ。『今ここで、幼さを言い訳に美弥を手放したら、二重に家族を失うことになる。そしたらあなたは、美波を亡くしたことから一生立ち直れませんよ』って」
「え、なんだ、そうなんすか?」
「そうあからさまにがっかりするなよ。噂の真相なんてそんなもんだ。しかも、結局は俺だって、去年再婚して美弥の面倒は今のカミさんに頼りっぱなしだよ」
「ああ、弘子さんへの編集長のあのプロポーズは、もはや編集部の伝説になってますもんね」
「そ、それを言うなよ。俺も必死だったんだよ」
弘子はかつて、千尋出版の総務で契約社員として働いていた。隆司は辞表を提出した弘子を引き止めようとして、その場でプロポーズしたのだ。美咲がニヤニヤしながらその時のことをからかうと、隆司は顔を赤くして冷や汗をかいている。
「美弥ちゃんもよく懐いてるみたいだし、あー、あたしもあんな嫁が欲しいー。編集長、新婚なのにこんなとこで何やってんですか」
「おまえな」
ぶつ真似をすると、美咲が笑いながら「あーうそうそ、すんませーん」と両手を挙げた。
それきり話は、「このままでは兄貴よりチョーヤバい」美咲が、いかにしていい男をゲットできるかという、一見明るくふるまっているが、意外に根深い自虐ネタにすり替わった。
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