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前妻の美波は、当たり前だが美弥を手放しで愛した。
隆司にとっても初めての子どもを前に、母親とはこんなにもわが子に夢中になれるものかと感心した。美波は26歳で美弥を産み、心臓発作で死ぬ直前までの丸二年以上、寝る間も惜しんで自分の殆どを美弥に注いだのだ。
もともと持病があるという話は聞いていなかったし、美波自身、自分の心臓に何らかの欠陥があったという自覚もなかっただろう。それほど、幼いころからごく普通に暮らしてきたのだ。そのことが逆に、病の兆候を見逃させてしまったのかもしれない。
美波は、一階の階段の下で、紙オムツを持ったまま倒れていた。おそらく、目覚めた美弥のオムツを取り換えようと、階段を上がる直前に発作を起こしてしまったのだろう。隆司がそれに気づいたのは、朝、いつまで待っても現れない母恋しさにぐずる美弥に起こされ、仕方なく抱き上げて一階に降りようとしたときである。
美波は、眉間にわずかに皺を寄せたまますでに冷たくなっていた。
何も気づかないまま惰眠をむさぼり、病の兆候にも死んだことにも気づかず、真冬の冷たい廊下に、いったい自分は、どれほど美波を放置したのだろうと思うと、自分を責めずにはいられなかった。
美波は、苦しい息の下で何度も自分を呼んだに違いない。もっと早くに気づいていれば、年齢的にもきっと救えたに違いないのだ。
そんな風に隆司が自分を責め、危険なまでに心の中の真っ暗な檻に閉じこもりそうになる寸前、北海道から出てきて、しばらくの間、隆司や美弥の身の回りの世話をしてくれていた義母が突然、「明日、北海道に帰るから、後のことはよろしくね」と言って、抱いていた美弥を隆司に押し付け、荷物をまとめ始めたのである。
「え……」
ポカンと戸惑う隆司に、女性にしては背が高く、華道を教えているというキリリと姿勢のいい義母は言った。
「母親にとって、わが子は自分の体の一部みたいなものなの。自分よりわが子の命を優先する生き物なの。だから、あなたは美弥を、石に齧りついてでも育てなさい。美弥をあなたの手で育てることが、あの子を、美波を生かすことになるわ。グズグズめそめそいつまでも自分を責めるヒマがあるなら、美弥の食事の心配でもしなさい」
義母にぴしゃりとそう言われ、隆司はようやく目が覚めた。
以来、上司に頼み込み、多忙な雑誌編集部から、作家付きの文芸部に移り、周囲の協力を得ながら、弘子に出会うまでなんとか男手ひとつで美弥を育て上げたのだ。
そんな過去のあれこれを思い出しながら、すっかり出来上がった美咲を追い立て、隆司は伝票を掴んで立ち上がった。
「さ、帰るぞ。俺はおまえと違って家族持ちだからな」
「うわっ編集長―、それ、いまのあたしにはキツイっすー」
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